『文明の物流史観』【物流から歴史を視る!人類はどうやってモノを運び売ってきたか?】 【第2回:出アフリカと定住―出ていった理由、住みついた理由】

『文明の物流史観』解説第2回は、誕生の地アフリカを出ていった人類が定住するまでをみていきます。文明が誕生するには、まず安住の地を見つけなければなりません。しかし、人類は誕生の地をどうして出ていかなければならなかったのでしょう?前項でその理由として気候変動による植生の変化について触れましたが、今回の前半では、それをより詳しく解説します。

放浪の旅の間も狩猟採集で暮らしてきた人類は、なぜある土地に定住することにしたのでしょうか。周囲の環境が優れていたとして、どの優位性はどこにあったのでしょう。農耕の持つ「予測できる実り」を得るためには、狩猟採集とはまた違った労力が必要です。定住する代わりに決して楽ではない暮らしを人類に選ばせたのは、どの要素だったのでしょうか?

Ⅲ 人類の出アフリカと文明誕生の条件

  • 人類はなぜアフリカを離れたか?

アフリカ東部のグレート・リフト・バレーで約400万年~300万年前に、類人猿から進化した猿人(アウストラロピテクス)が誕生しました。猿人から進化した原人(ホモ・エレクトス)は約180万年前にアフリカを出て、南ヨーロッパ、ジャワ島、中国などに拡散しました。旧人(ネアンデルタール人)は約40万年前に出アフリカを果たしヨーロッパに到達しました。約20万年前にアフリカにとどまっていた原人から進化したクロマニヨン人は、ヨーロッパとアジアに拡散し、一時期現生人類と共存していました。これらはみな絶滅しています。

現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)は約20~15万年前に原人からさらに進化して誕生し、約10~7万年前に出アフリカを果たし、全世界に拡散しました。その頃地球は寒冷期であり、現在より海水面が低くベーリング海峡やスンダ海峡が陸橋化されたため、人類は陸を辿って拡散することができたのです。現生人類が南米最南端のマゼラン海峡まで到達したのは、約1万1000年前頃とされています。現生人類は、出アフリカから約6~7万年かけて全世界に拡散したのです。

このように人類が世界に拡散していった根本的な理由は、「食料問題」と「人口増加問題」です。人々はなぜアフリカで生活できなくなったのでしょうか?その有力な説が、地球環境の変化と植生の変化を唱える説です。

  • ミランコヴィッチサイクルと気候変動

1920~1930年、セルビアの地球物理学者ミランコヴィッチは、地球の公転軌道の変化、地軸の傾きの変化、地球の歳差運動という3種の異なる周期運動が地球面に照射する太陽光の量を変化させ、地球の気温を変化させることを数値化して示しました。後に別の研究者が地球の地形変化による影響を気候モデルに取り込み、ヒマラヤ・チベット高地の隆起が全地球の気候に重大な変化を及ぼすことを明らかにしました。

これらの説は決定的な気候変動を説明するまでには至っていませんが、有力な説です。ミランコヴィッチサイクルによる日射量の変動と氷期・間氷期の周期を照らし合わせると、過去100万年に13回の温暖化・寒冷化が周期的に起こっていたことがわかります。

地球は約3400万年前頃から氷期に突入しました。1000万年前にはヒマラヤ山脈が2000メートル近くになっており、これが季節風に大きな影響を及ぼし、更に寒冷化を加速させました。また、人類誕生の地グレート・リフト・バレーが急激に隆起した時期に、熱帯雨林は急速に乾燥化し、熱帯サバンナが広がりました。この急激な温度変化に伴って猿から二足歩行の猿人が分化し、原人・旧人・新人へと変化していきました。

ではなぜ寒冷化に伴って猿人の進化が起こったのでしょう?この寒冷化は、南アフリカからアラビア半島を覆っていた熱帯雨林を湿潤なサバンナに変え、同時に哺乳類を繁殖させました。これらを餌にするには、二足歩行で道具を使え、認知能力の高い人類が最も有利です。動物たちは熱帯雨林の撤退とサバンナの拡大とともに、アフリカからアラビア、ユーラシアへ拡散しました。

寒冷化が熱帯雨林からサバンナへ植生を変化させ、それによって人類の進化がもたらされました。餌となる動物たちを追って、狩猟中心生活の人類は出アフリカを果たしたのではないかと考えられます。

寒冷期の地球に広がった草原で人類はあちこちに移動して散在し、動物を狩猟して暮らしていました。しかし今度は、1万2000年前頃から急激な温暖化が始まります。この頃からサハラやアラビアは砂漠化し始めますが、ナイル河畔等には麦が繁殖し、天水農業が可能になります。ヒマラヤから流れ出した河川は、中国や東南アジアに広大な沖積平野を作り、稲を繁殖させました。これらの地域で人類は、野生種の採取生活を終え、天水農業を発展させ、灌漑農業を始めます。ついに、都市文明が生み出されるのです。

  • 文明発生地の地域的特性と比較優位性

温暖化が始まると、北緯35度線付近は乾燥化が進み、広大な砂漠を含む乾燥地帯となりました。森林はどんどん北上し、ユーラシア大陸の北緯45度付近のベルト地帯は広大なユーラシアステップが広がりました。森林の北上とともに狩猟対象の動物も減り、その代わりに豊富な野生小麦が繁茂します。この小麦を主とする定住農耕生活を人類は選びました。四大文明発生地以外の地域でも人類は狩猟採集生活から農耕生活への移行を余儀なくされていましたが、なぜこの地帯で文明が興ったのでしょうか?

四大文明の生まれた地は乾燥地帯に接する、大河川の沖積平野です。河川沖積平野は農耕牧畜に適しており、定住の条件が整っていました。農耕牧畜の発明より前に穀物や野菜の野生種が豊富に自生しており、定住人口の増大を支えることができたのです。

衣食住の衣についてはどうでしょう?かつては獣の皮を着ていた人類も、動物の数が減るとそれも入手が難しくなりました。四大文明発生の地は、この点でも有利でした。繊維の材料となる綿花や亜麻、麻が自生し、中国には蚕が生息していたのです。

また、文明開化帯に特徴的なもう一つの点は、家畜化動物の多様性です。メソポタミアには牛・羊・ヤギ・豚の野生種が、アラビア半島にはラクダ、ナイル川流域にはロバ、インダス川には水牛、黄河には豚がいました。最初は狩猟の対象だったこれらの動物を家畜化することによって、人類は肉と同時に貴重な労働力を得たのです。ちなみに馬は紀元前4500年頃、現在のウクライナ地方で最初に家畜化されています。

四大文明発生の地には、これらの比較優位な要因が揃っていました。ロバや牛、馬、ラクダの家畜化は、生産・輸送に利用できるという点で極めて有利となり、この地帯の文明開化を推し進める大きな原動力となりました。

  • 定住農耕の開始(新石器革命)

二足歩行に進化した人類は、人間特有の道具を発明し生活に役立てる知恵を持っていました。狩猟採集生活において人類はこれらの道具を発展させ、家族を中心とした血縁集団で移動生活を行っていました。動物が豊富な地の洞窟に一時的に定住し、獲物が減ると移動するという生活の中で、別の血縁集団に出会うこともあり、そこで食料や道具の交換が行われたのではないかと考えられています。人類最初の交易は、このようなものだったのでしょう。

森林の北上によって大型動物が減り、人類は魚や河川流域の野生穀類、草原にいる家畜動物の原種を食物とするようになります。この頃人類は新石器を発明しました。骨に鋭い石刃をはめ込んだ鎌は、麦の先端を容易に収穫できました。釣り針や網等も見つかっています。このような新しい道具を発明した時代は新石器時代と呼ばれています。

現生人類は周囲の変化に対応して生活を変えていったといえますが、大型動物は減ったとはいえ、小型動物や魚もいて特に狩猟採集生活に困ったわけではないのに、なぜ定住農耕生活に移行したのだろう?という疑問が湧きます。「サピエンス全史」で述べられている説は、以下のようなものです。

こぼした種から小麦がまた実ることや、水のある場所では育ちがいいことにあるグループが気付き、狩猟の合間に小麦を育て始めます、そのうち、同じ場所で大規模に栽培を行えば飢えることもなく、移動の必要もないと提案するものが出ました。それが他のグループに広がり、人々は大きなグループで集落を作って生活を始めます。周りの別集団から襲われるリスクはあったものの、何世代も定住生活を続けた後では狩猟採集生活に戻ることはできませんでした。

こうして紀元前8500年を過ぎると集落は大きくなります。紀元前5500年頃には山麓の方へと集落は広がり、チグリス川・ユーフラテス川流域にはこうした集落が広がっていました。周囲には壁を築いて防御を固め、家屋は同じ場所で何度も高く作り変えられていきました。この頃すでに小規模な灌漑が行われており、大麦・小麦・亜麻などが栽培されました。遺跡から、この頃にはトルコ~紅海にわたる広範囲の交易ネットワークが存在したことがわかっています。

この流域は土地が低く、川は頻繁に溢れます。居住地・耕作地の選択は死活問題で、これらを巡って紛争も頻繁に起こりました。このような状況が、メソポタミア農耕民に社会組織の発達を促したのです。自然への畏怖が祭祀と権力の集中を生みだしました。メソポタミアには良質な粘土と農産物以外に資源はなく、それ以外のものを入手するには交易を発展させるしかありません。こうした条件が、メソポタミア都市の広域交易を発展させたのです。

一方インドでは、紀元前7000年頃から最初の継続的定住が始まっています。メヘルガル文化と呼ばれるこれらの文明では、その地では産出しない海の貝殻やラピスラズリが見つかっていることから、それらを産出するアフガニスタン北東部と交流があったと考えられています。紀元前3600年頃から栄えたインダス文明では、沿岸部で造船が行われ、メソポタミアと交流していました。

中国では、紀元前1万2000年頃長江の中流域で稲作が始まり、紀元前5000年頃には稲作中心の定住農耕生活が始まったと考えられています。黄河流域では紀元前6000~4000年頃から雑穀の栽培や豚を中心とした定住生活が始まり、自然神や先祖を祀る集落を形成し、長江文明を吸収していきました。この集落(邑)がやがて都市に発展します。

 

今回は、出アフリカを果たした人類が定住農耕を始めるまでをみてきました。定住し農耕生活を営む人類はやがて集落から都市を形成し、「ここでは手に入らないもの」「別の場所にはあるもの」を求め始めます。それを交換することで交易が生まれ、モノを運ぶ手段が生まれ、モノ以外の様々なものも交換されていきます。

次回は、いよいよ商人の誕生です。人類が都市を作り、都市経済の中で市場と商人が発展するまでを辿ります。次回までで交易史を見直す際の基礎知識編は終了です。人々は何を用い、どんなルートでモノを運んできたのでしょうか。今皆さんの手元にあるお気に入りの商品も、その最初の一歩の先にあるのです。