『文明の物流史観』【物流から歴史を視る!人類はどうやってモノを運び売ってきたか?】

【第5回:交易の歴史的変遷と文明―交易の視点から歴史を見直す】

②第三次・第四次輸送革命~帆船と隊商でより遠く、馬と戦車でより強く!

『文明の物流史観』解説第5回目となりました。前回は交易の視点からみた人類史の区分を定義し、「輸送革命」に注目した区分ごとにその内容を追い始めました。丸木舟で川や海に漕ぎ出した人々は、やがて陸上では牛やロバに荷物を運ばせることを思いつきます。背中に載せるだけでは効率が悪いので、動物に荷物を牽かせるために車輪も開発されました。

今回は、海や川で帆船が使われ、陸上ではロバを用いた隊商が動き出します。また人々は騎馬の技術を手に入れ、戦車(チャリオット)を用いて機動力と戦力を劇的に増大させました。軍用の技術が、輸送技術の向上にどのような役割を果たしたのでしょう?

5.4 第三次輸送革命:木造帆船と騎馬の発明

第三次輸送革命が生じた時期は、メソポタミアでウル第二王朝が衰えはじめ、シュメール都市王朝が成立し、エラム国家が繫栄し、ペルシャ湾を通じてインダス文明との交易が始まった頃です。さらに、騎馬と戦車を用いたシャルル・キーンによってシュメールが統一され、アッカド帝国が興隆しました。東地中海ではクレタ・ミノア文明が勃興し、エジプト~メソポタミアの中継貿易で次第に東地中海を支配していきました。一方、エジプトでは紀元前3000年頃、メネス王によって上下エジプトが統一され、初期王朝が誕生しました。

強力な王権が誕生すれば、大規模な神殿や王宮の建設で権威を示す必要が生じます。奢侈品や建設に必要な建材を得るには、王自ら遠征を行って略奪する(武装交易)か、王権に権威付けられた商人に交易を行わせるか、遠隔地から貢納させる(貢納交易)必要がありました。このような大規模な交易を行うには、これまでの牛やロバによる陸上交易だけではとても実現できません。ここに、第三次輸送革命が起こる必然性があります。それは、木造帆船の発明と騎馬の誕生でした。騎馬は輸送とともに戦闘力をも一変させ、帝国の出現を促す原動力となりました。

  • 古代エジプトの帆船

最初の帆船はエジプトで作られた、組み立てた木造の準構造船でした。

エジプトで開発された木造船は縫合船と呼ばれ、船体の製作法は①綱で縫合する方法、②ホゾ結合、の2つの方法がありました。当時のエジプトの船は竜骨も肋骨もない構造でした。初期の帆船はマストの位置が前寄りだったため、操舵が難しいという欠点がありました。しかし、ナイルの流れは南から北に、風は常に北から南に吹いていたため、川を下るときは流れに乗っていればよかったようです。のちに、外洋航海に耐えられるようにマストの位置は改良されました。

  • クレタの帆船と地中海貿易

クレタ文明の帆船については、エジプトのような多彩な絵画が残っていないので、まだ詳しくはわかっていません。しかし、新石器時代から利用されていた刳船を基礎にして、側面に舟板をつけて波浪の侵入を防ぐ、いわゆる準構造船に帆柱を据え付けた構造ではないかと推測されています。

この頃クレタが東地中海の交易で果たした大きな役割は、交易の中継地としてのものです。クレタは西方からの東アジアに向けての架け橋、あるいはギリシャやローマがオリエントに向かうための中継地となったのです。彼らの交易の大半が中継交易でした。クレタはミノアを中心にミノア文明を開化させました。ミノア商人は東地中海全域の交易を幅広く担っていました。

エジプトで発明された木造帆船はメソポタミアに伝播するとともに地中海世界にも取り入れられ、クレタを中心に東地中海海上交易が活発化されていきました。しかしやがて、ローマ帝国の成立とともに地中海交易はローマ帝国の支配下に置かれることになります。

  • 騎馬の発明

気候変動に伴って、動物の生息地も大きく変化しました。馬は北アメリカでは絶滅し、野生馬の大きな群れはユーラシアステップでのみ生き残りました。

馬は紀元前4200年頃には家畜化されていたと推察されています。最初は食肉用だったのですが、人々はやがて馬を常用として利用し始めました。紀元前4200年頃、ポントス・カスピ海ステップの遊牧民が、馬に乗ることを考え出しました。羊や山羊の遊牧において、騎馬による監視だと一人で1000頭程度を監視でき、労働生産性が一気に上がったのです。

ポントス・カスピ海ステップからメソポタミアやアナトリアへ騎馬の技術が伝播したのは紀元前2000半ばでした。馬に自由に乗るには鐙と鞍の発明が必要ですが、青銅のハミが発明されたのは紀元前1300年~紀元前1200年頃で、スキタイで革製の鞍や鐙が開発されたのは紀元前800年頃でした。

  • オリエントとインダスの交易

メソポタミアの都市国家は、紀元前3000年頃にエラム地方の都市スーサを中心とした交易ネットワークで結ばれ、アフガニスタンを結ぶ陸上ルートと、海路ではオマーン半島のアラビア海洋民族ハリージーによる航海ルートが利用されていました。

アラビア半島における航海については、出土品の分析から、すでにこの頃シュメール文明とインダス文明の交易が開始されていたことがわかっています。

エジプトもメソポタミアも、シリアやアフガニスタンから金属材料や木材、貴石を輸入していました。またエジプトは金や象牙の入手のため、ヌビアへ船で遠征しました。サハラやアラビアの砂漠越えにはロバの隊商が活躍しました。

メソポタミアが必要とした青銅器の原料鉱物は銅と錫でしたが、銅は地中海のキュプロスが一大産地であり、クレタやのちのミケーネの重要な中継交易地でした。これらの海上交易で重要な役割を担っていたのが、シリア海岸のウガリトやビブロスでした。

5.5 第四次輸送革命:チャリオットの発明とロバの隊商

第四次輸送革命はチャリオットの発明とロバの隊商の本格化で始まりました。チャリオットそのものは軍事用戦車ですが、車輪の改良がその後のさらなる輸送革命につながったという意味で、人類の大発明なのです。

紀元前2000年頃には、地球の寒冷化により、ポントス・カスピ海ステップで遊牧騎馬をしていた遊牧民たちが南下してきました。彼らはヨーロッパ全域とインドにまで侵入し、アナトリアにヒッタイト王国を築きエジプトとシリアに対して侵攻を繰り返しました。その一部であるドーリア人はギリシャに侵入し、東地中海にも植民地を広げて海洋文化を築き、やがてフェニキアと地中海の交易覇権を争うようになりました。彼らがバルカン半島に作り上げたミケーネが、アナトリアの都市国家トロイ文明とともに東地中海を支配するようになります。

鉄の鋳造技術を秘めていたヒッタイトが紀元前1200年頃に滅ぼされて以降、鉄器技術は世界に広まります。彼らの一部は後に中央アジアの遊牧民となり、スキタイ文化を築き、モンゴルや匈奴などを通じて黄河地帯にその文化を伝播させました。

メソポタミアでは紀元前2004年バビロニアがメソポタミア全域を支配下に収め、ハンムラビ法典を整備し、地中海方面の交易に力を入れていました。しかしヒッタイトのアナトリア支配によって、バビロニアは分裂を迎えます。

エジプトは一時期アーリア系騎馬民族の支配下にありましたが、ヒッタイトの興隆に乗じて王国を復活させ、新王国を建設します。

  • チャリオットの誕生

騎馬が軍用に供されるのより早く、戦車の開発が始まります。当時のメソポタミアにおいては家畜化された馬の入手はまだ難しかったので、代わりにおとなしい小型の野生馬「オナガー」を利用していました。

メソポタミアでは四輪の牛荷車を戦闘用に利用するため、オナガーに牽引させるよう改造します。御者と弓を射る者が同乗して戦う方式です。この原初的な戦車がメソポタミアからステップに伝わり、戦闘用のチャリオット(二輪戦車)が生み出されました。戦車の運動性能を高めるため、車輪は軽くて制御しやすいものでなくてはなりません。ウラルステップで、車輪がハブ・スポークス方式に改良されました。この精巧な戦車が、各地方に伝播していきます。

エジプトに戦車が伝わったのは、アーリア系ヒクソス人の侵入がきっかけでした。エジプトで戦車のスポークは6本になり、革等を用いたより高度な衝撃吸収技術を備えることになり、さらに車上から矢を射ることができるようになっています。

戦車の開発は戦争の様相を一変させ帝国の出現を可能にしただけでなく、遊牧騎馬民族の発生をも可能にしました。季節によって草の豊かな場所に移動しなければならない遊牧民は、一族の家財道具も一緒に運ばなくてはなりません。それにはワゴンが必須でした。車輪やワゴン、戦車に使われたハブ・スポークス車輪の発明なくして遊牧騎馬民族の発生もまたあり得なかったのです。

  • オリエント交易圏の拡大と黄河文明交易商の誕生

紀元前2000年紀になると、バビロニア王国が栄えました。ハンムラビ王は駅伝制を整備して交易路を拡大し、法典による各種の規則を制定しました。しかしその後ヒッタイトに滅ぼされ、メソポタミアは分裂します。

この頃地中海ではクレタ文明に代わりミケーネ文明が勃興し、下エジプト・アナトリア・シリアを抑えたヒクソスを通じて上エジプトとメソポタミアを中継する貿易で栄えました。

エジプトでは紀元前2000年頃中王国のメンチュヘテプ二世がプントに遠征交易を行い、シリアとの交易で隆興しました。のちにヒクソスの侵入を受け、一時期支配されますが、新王国として復活し、プント交易遠征も復活しています。

黄河文明では紀元前1500年頃、青銅器文明とともに戦車がステップ遊牧民を通じて伝わり、殷王朝が成立しました。国内の邑市場が栄え、西方のオアシスとの交易がありましたが、地中海世界との直接の結びつきはありませんでした。

アナトリアへのヒッタイト侵入でシリアの重要性が増し、エジプトもメソポタミアも地中海方面の交易に重点を移すようになりました。メソポタミアにおいてはチグリス・ユーフラテスの河川交易も重要性を増し、ハンムラビ法典では運送関係の規則も事細かに定められています。

条文を見ると、当時すでに依頼主・船主・雇われ船頭などが商取引で分化していたことがわかります。そのことは、法を必要とするほど問題が多く発生したことを示します。

紀元前1400年頃になると、バビロニア王国の滅亡に伴ってシュメール地方はカッシートやエラムが支配するようになりました。オリエント地方はヒッタイト、アッシリア、エジプトがシリア地方を拠点に政治・外交上のバランスをお互いに取るようになります。

アマルナ文書によれば、エジプトと西アジアの諸王は贈り物を交換し合い(贈与交易)、見返りを受け取っていました。贈り物の輸送を請け負ったのは国王の使者や国王から委託された商人です。アッシリアからは馬や車がエジプトに届けられ、キュプロスからは銅が贈られています。エジプトからの贈り物は主に金でした。この金を、諸王は大変喜びました。これらの土地では黄金がすでに商品の決済をする基礎、つまり支払の手段ともなっていたからです。

このように、紀元前2000年頃にはアナトリア~シリア~エジプトと、交易が西アジアとエジプト一帯に広がり、それにつれて貨幣代替通貨が「金」になっていきました。通貨が通貨の機能について共通の認識をもつ「世界」ができあがっていたのです。

  • ロバの隊商

この時代、長距離の陸上輸送にはロバの隊商が本格化しました。王の贈物を持参してエジプトとメソポタミアの間を往来するとき、隊商は主にシリア砂漠のステップ地帯を通るルートをとったようです。パレスティナやさらに遠くナイル川のデルタ方面へ至る街道に合流することもありました。ロバやラバの速度から考えると、バビロンから中部エジプトのアマルナまで、休日含め大体3か月を要した計算になります。また、ロバの隊商はメソポタミアだけでなくエジプトの南方ヌビアやアナトリアとの交易も担っていました。隊商の規模はルートや時代によっても異なりますが、20頭弱のものから始まって、のちには300頭にまで達する大規模な隊商も運用されたようです。陸上輸送には襲撃を受けるリスクがあったため、王たちは王の商人の安全を保証する必要がありました。

一方、海上ではシドン・ティルスを根拠地とするフェニキアが海上交易を支配し全地中海の交易が盛んになりました。フェニキア人はアッシリアや新バビロニアの台頭により圧迫を受けだすと、カルタゴを基地にイベリア半島に植民地を建設し、西地中海の交易を掌握します。彼らはバルカン半島のオリーブやブドウ酒をメソポタミアやエジプトに輸出しました。メソポタミアからはウガリ経由でクレタに穀物が、エジプトへは錫、馬、車、銅、衣服などが輸出されました。一方エジプトからは金、象牙、黒檀など、キプロス島からは銅が輸出されました。

また、民族の移動が盛んになるにつれ、被征服民族は奴隷として売買されるようになりました。女奴隷は家事や織物の担い手として、男奴隷は農業や軍事に服役させられました。この奴隷の存在は、都市国家や帝国の維持に不可欠なものでした。

今回は、木造帆船と騎馬、ロバの隊商とチャリオットの発明によって飛躍的に交易範囲が広がった様子を解説しました、地中海が貿易の主な舞台となり、中継地の役割を果たす地域も栄えます。また戦車の開発によって軍事力を上げた大国は周囲の制圧に乗り出して植民地を増やします。国同士は友好関係を保つために隊商を用いて贈与外交を行い、そこで使われた金は通貨の性格を持ち始めました。

次回は、遊牧騎馬民族とラクダの隊商の誕生、ラクダの隊商とインド洋航路の開発が東西を繋ぎ、シルクロードが生まれるまでを追っていきます。『陸路での交易の歴史』といえば、何となくシルクロードを行く隊商を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。成立の背景が次回で取り上げられますよ。