『文明の物流史観』【物流から歴史を視る!人類はどうやってモノを運び売ってきたか?】

【第7回:交易の歴史的変遷と文明―交易の視点から歴史を見直す】
④第六次輸送革命~シルクロードの夜明け~

『文明の物流史観』解説第7回目です。前回は、騎馬と車輪の発明がもたらした遊牧騎馬民族の隆興と、ラクダの隊商の始まりまでを解説しました。草を追って移動生活を行う彼らは気候の影響を受けやすく、家畜の食料を求めての移動が、農耕を礎とする大国にとっての脅威ともなりました。

今回解説する部分では、ラクダの隊商による陸上輸送の拡大とインド洋航路の発見によって、東西文明が繋がり始めます。海陸の東西の中間に位置するインド、またシルクロードに発生した中継オアシス都市は、ここにおいてどのような役割を果たしたのでしょうか。

5.7 第六次輸送革命:シルクロードの夜明けとインド洋航路の発見

第六次輸送革命とは、地中海世界とインド世界と中国世界が、オアシス都市を結ぶラクダの隊商とインド洋航路(アラビア海と東西インド洋)と南シナ海航路を経由して直接結びつき始めた東西輸送革命のことを指します。この頃、東西海上貿易の中継都市としてインドシナ半島に林邑や扶南のオケオといった都市国家が誕生しました。

この時期、東西交易の歴史は大きく二期に分かれます。前半はローマ~パルチア~漢の時代、後半はローマが東西に分裂し、西ローマが滅亡した後の東ローマ~ササン朝ペルシャ~魏晋南北朝・隋の時代です。

紀元前3世紀には、ローマが全イタリアを統一します。その後ローマはマケドニア、ギリシャ等を征服、続けて黒海周辺国やエジプト等の北アフリカ等も支配する大帝国となり、カルタゴにも勝利したことによって地中海世界の覇者となりました。コンスタンチヌス帝はキリスト教を承認し、以後キリスト教はローマの国教として、ローマ帝国の領土拡大とともに西洋に広がっていきます。

しかし3世紀末から地球寒冷化によって再び民族大移動が始まり、東の草原で暮らしていた遊牧騎馬民族フン族に追われたゲルマン民族が大挙して西ローマに流れ込み、476年に西ローマがゴート族の支配下に入りました。しかし、コンスタンチノープルに首都を置く東ローマはその後の地中海世界においても、シルクロードの終着駅として繁栄を続けました。

西アジアでは、パルチアを滅ぼしたアルダシール一世がササン朝ペルシャを建国し、東ローマ帝国と衝突を繰り返します。ササン朝ペルシャがアラビア半島東海岸やオマーン半島を抑えたため、東方交易の海上ルートを塞がれた東ローマ帝国は紅海ルートに頼らざるを得なくなりました。これに対しササン朝ペルシャはイエメン地方を制圧し、これ以降ローマ人のインド洋交易は途絶えてしまいます。この間アラビアのメッカ商人は東方貿易で富を蓄えましたが、そのために貧富の差が拡大し、イスラム教の教祖ムハンマドが誕生する基礎ができました。

インドでは北方騎馬民族が南下しクシャーナ朝を興し、アフガニスタン全域、タリム盆地西部、西北インドを支配下に収めて繁栄しました。その基礎は、遊牧騎馬民族の軍事力と東西南北にまたがる国際交易の利益にありました。320年頃、クシャーナ朝とアーンドラ朝が滅ぼされてグプタ朝が誕生します。

一方中国では、秦が倒れた後劉邦によって漢が建国されます。また、遊牧騎馬民族匈奴が全モンゴルを統一し、西域諸国を支配下に置き、東西貿易の利益を独占します。匈奴は漢に度々侵入し略奪を働きました。武帝は匈奴をモンゴルの奥地に追いやることに成功し、西域諸国を服属させ、西域都護府を設置し軍隊を常駐させます。征服地には兵士を送り込み、農耕地の造成などの開発を行いました。その後内地からも多くの人々が移住し、敦煌等の諸郡が新設されました。このような経緯で、西域とパルチアを通じて陸上のオアシスルートが出来上がったのです。このオアシスルートは華中と西域を結ぶだけでなくインドの内陸部ともつながっており、インド内部の道路網を経て現在のコルカタやパキスタンのカラチなどの東西インド洋に面する港とつながっていました。資料からは、前漢の時代にすでに中国と東南アジア、南インドとの間で海上交易があったことが窺えます。

武帝は朝鮮や南方にも出兵して周辺を支配していきましたが、遠征による財政悪化に対応するため、塩や鉄を専売制とし均輪法や平準法を導入しました。国が均輪官を派遣し、それを通じて物品の購入や輸送、物価調整機能などを国が行ったのです。

後漢の時代になると国の乱れに乗じた周辺騎馬民族の流入等のため、漢も滅びます。その後の混乱を制して再度中国を統一したのが隋王朝でした。

この大きな動きは朝鮮半島や倭国にも伝わり、倭国は朝貢使節を送っています。縄文時代末期には大陸との往来が行われていましたが、用いた船は丸太船に板を張った準構造船であったと推察されています。その後百済から造船法が伝わり、準構造船を主体とした蛇腹式の帆船も建造できるようになりました。大和朝廷は難波の津を整備し、大宰府を設置して交易の窓口とし、遣唐使を派遣します。こうして得た仏教をはじめとした先進文明によって日本は大きく発展しますが、同時に国際的な紛争にも巻き込まれることになりました。

以上のように中国、インド、ペルシャ、地中海とそれぞれの地域で大国が誕生し、国際世界はほぼユーラシア全域に広がりました。しかし、このような大国支配による安定期は長くは続きません。4世紀になって起こった寒冷化によって、北方のユーラシアステップで遊牧を営んでいた騎馬民族が一斉に南下し、それまでの帝国や王国を次々と滅ぼしたのです。こうして、紀元前後に始まった東西交易は以後、東ローマ~イスラム帝国~インド~隋・唐帝国へと引き継がれていきました。

  • シルクロードの夜明け~インドの役割~

武帝の時代には、パルチアを中継してローマ世界との交易がオアシスルートや草原ステップルートを利用して開始されました。地中海世界とインド、中国との交易はオアシスルートがメインでした。武帝の時代にはすでに南インドまでの海上航路がありました。ローマが海洋航路を利用したのはパルチアが直接交易を許可せず、ローマの使節を通行させなかったからです。こうして陸と海の交易路が開け、近代になってシルクロードと名付けられることになりました。

当初の主な交易品はアラビア南端の乳香、アフリカの象牙や金、インドの香辛料や象牙が主でした。やがて地中海世界が広がるにつれ、東方の香辛料が欠かせないものになっていきます。西からは金と銀が東へ流れ、中国からは絹が流れました。

インド航路の発見によって、地中海世界の人々はインドの東側の世界に気づきます。東西の中継地点にあるインドは、この時期大きな役割を演じました。インド人やインドに入植したギリシャ人やアラビア人たちの一部は、紅海やペルシャ湾からインドを往復する季節風(ヒッパロスの風)航路の存在を知っており、この航路を利用することによってペルシャ湾沿岸を利用する必要がなくなったのです。この航路の発見により、パルチアの妨害に遭わずに直接インド・中国と交易が行えるようになりました。

当時の交易圏は西からローマ、地中海世界、パルチア、クシャーナインド世界、中国世界の四大地域でした。中央アジアのオアシス地域はこれらをつなぐ中継貿易ルートです。一方海上貿易も、前述の航海法の開発により、西方からの商人が紅海からインドの港に渡来していました。東西交易といえば地中海世界と中国との交易を思い浮かべがちですが、インドの果たした役割は極めて重要です。同時に、中央ユーラシアのオアシス国家の重要性も忘れてはなりません。海路は危険が大きく、しかし定期的な隊商もない時代、東西の旅をする人々はこれらのオアシス都市を利用して砂漠を渡ったのです。

  • 東西におけるインフラの整備

この時代に特筆すべきことは、ローマ帝国がヨーロッパ一円にわたって整備した道路網と、帝国の外港としてのオスティア港、隋が築いた中国南北経済圏を結びつけた運河です。これらはやがて実現するシルクロード交易の本格化に先立ち、それぞれの領域での地域内交易を活発化させました。

ローマを発した「ローマ街道」は、北海からサハラ砂漠、大西洋からユーフラテス川、イギリスからシリア、ドイツやバルカンからエジプトまで網羅しています。軍事目的で敷設された街道ですが、一般市民も通行できたため、経済面で大きな影響がありました。郵便夫が馬を交換する場所や宿駅が一定距離ごとに整備され、帝国官吏や証明書所持者はこれら国営施設を使うことができました。

首都ローマの人口膨張により輸入がひっ迫したため、テベレ河口に人工港オスティア港が建設されました。これにより大型船が常時安全に停泊できるようになりました。

中国では、隋の時代に科挙制度が始まり、優秀な人材が中央政府に集められました。江南の産物を首都に迅速に貢納させるため大運河の開削工事が行われました。この大運河は各王朝の物流を支えましたが、同時に人民を疲弊させ、国の滅亡をも招きます。しかし一方では陸のシルクロードと海のシルクロードを接続し、ユーラシア循環交易路を開く基礎ともなったのです。

 

今回は、いよいよシルクロードの萌芽が見え始め、西と東が繋がっていく様子を追ってきました。色々な国名が出ては消えてゆくので、まとめていると高校時代の世界史の授業を思い出します(地図帳、お勧めですよ!)。本書は交易の視点から歴史を見直すことを目的としていますが、逆にこの本を読んで世界史をやり直してみよう、地中海やアラビア、インドや中国について学び直してみたいという方がいらしたら嬉しいです。

次回は、海と陸のシルクロードが完成します。それまで海上貿易においては目立たなかった中国は、宋代に入るとジャンク船を用いて海に乗り出し、西世界の多くを手中に収めたイスラム帝国の商人たちと渡り合います。東南アジアに進出した中国商人は、華僑の基礎を築きました。

今後は北ヨーロッパも交易の表舞台に登場します。大航海時代が見えてきますよ。