『文明の物流史観』【物流から歴史を視る!人類はどうやってモノを運び売ってきたか?】

【第8回:交易の歴史的変遷と文明―交易の視点から歴史を見直す】⑤第七次輸送革命~海陸シルクロードの完成~

『文明の物流史観』解説第8回です。前回は、東西で帝国が発展し、陸路ではオアシスルート、海路ではインド洋航路の発見によって東西の文明が繋がり始めるところまでをみてきました。

今回解説する節では、西のイスラム帝国と東の唐帝国の勃興によって、東西の海と陸の道がついに直接つながることになります。海陸シルクロードの完成です。それには、中国の技術による外洋航海船の開発が大きな役割を果たしました。

5.8 第七次輸送革命:ジャンク船の登場と海陸シルクロードの完成

シルクロードの始まりの時期における東西交易は、遊牧騎馬民族の中間交易によっており、まだ本格的なラクダの遠距離交易はありませんでした。オアシス都市同士を結ぶ短距離交易が中心だったのです。

しかし、西にイスラム帝国が勃興し、東では唐が磁石を備えたジャンク船を開発し東南アジアやインド洋に進出することによって、本格的なシルクロード交易が海陸ともに完成しました。ジャンク船は東シナ海、インド洋、アフリカにまで航海することになります。このような外洋大型船の開発こそ、第七次輸送革命といえるでしょう。さらにモンゴル帝国の出現により、ユーラシア海陸循環交易路が完成しました。

詳細の前に、この時期のユーラシア東西の歴史の概略をみていきます。

ユーラシアの東では、618年に唐帝国が興ります。唐は西域に進出を続け、玄宗皇帝の時代には東は新羅から南はスマトラ島、西はカスピ海沿岸までを従える大国となりました。875年に唐は税制改革を行って塩・鉄・酒・茶などを専売化したため物価が高騰し、農民が反乱を起こしました。黄巣の乱をもって唐は滅びます。

その後群雄割拠の時代を経て、960年に宋が建国されました。宋は科挙制度を強化して文治政治を執りましたが、周辺民族を抑えられなくなり、1127年に杭州を都に南宋として政権を繋ぎます。こうして金・南宋時代が始まります。この時代に揚子江以南が開発され、江南文化が誕生するとともに、宋代の広州、泉州などの港には多くの船が入港し、国際貿易が栄えました。

しかし、チンギス・ハーン率いるモンゴル民族の勢力が増大し、東は中国、西はペルシャ・アナトリア、ポーランド、北はロシア・ハンガリーまでを征服し、空前絶後の大帝国が完成します。このモンゴル帝国の出現が、世界交易システムを完成させることになるのです。モンゴル帝国は金と南宋も滅ぼし、中国史上初の強固な統一王朝大元ウルスが出現します。

この頃日本では推古天皇の摂政となった聖徳太子が統一王朝として初めて遣隋使を派遣しています。続く唐にも遣唐使を派遣し、租庸調の税制、屯田制、律令制を持ち帰りました。その後平城京、平安京への遷都を行い、日本の古代王朝文化が花開きます。武士の台頭で平家が実権を握ると、平清盛は宋との海外交易に注力し、日宋貿易の基地となる港を整備しました。

一方ユーラシアの西では、アラビア半島からイスラム勢力が急激な勢いで台頭してきました。イスラム教の教祖ムハンマドは631年には全アラビアを征服してイスラム帝国の基礎を築きます。ムハンマドの死後、後継者がササン朝ペルシャを滅ぼします。イベリア半島を除いたキリスト教世界は辛うじて生き残りましたが、その後イスラムは何度も東ローマ帝国に攻め入り、コンスタンティノープルを包囲しました。イスラム勢力は地中海をも支配下に収め、古代オリエント世界は終焉を迎えたのです。

イスラム勢力が支配した多くの地域の人々はイスラム教に改宗し、イスラム教は中央アジア~西アジアおよび北アフリカ、東南アジアにまで広がることになります。他教徒は中央アジアのソグディアナに逃げ込みましたが、その後イスラム教に改宗するソグド人も増えました。陸のシルクロードはこれらのソグド人が国際交易を支配しました。

こうしてエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマと継承されてきた諸文明はイスラム帝国によって融合され、インド、中国文明を取り込んで世界の最先端科学がアラビアで花開きました。西洋における独自文明の発展は大航海時代以降になります。

西にイスラム帝国、東に唐・宋と、ユーラシアは二大帝国時代に入り、東西の本格的な海陸交易が開始されることになります。「シルクロード時代」とは、この時期の7世紀から始まります。東の長安、西のバグダード、シルクロードの最終地点コンスタンティノープルが国際三大都市として栄えます。この時代に、製紙法、石炭、火薬、印刷術、羅針盤などが西方に伝えられ大きな影響を及ぼしました。

しかし、この二大帝国の時代は長くは続きません。中国では唐・宋が北方の遊牧騎馬民族に滅ぼされ、モンゴルによって再統一されます。西では各地にイスラムの独立王朝が誕生します。それに対抗するため十字軍が組織され、遠征が行われました。ベネチアやジェノヴァといったイタリアの都市国家は、シリアの諸港やエジプトを窓口にムスリム商人との交易と北海・バルト海のハンザ同盟諸都市との交易を中継することによって莫大な富を蓄えました。この繁栄によって、ルネッサンスが開花するのです。同時に、この西欧エリア内の南北交易は各都市の経済発展を促し、現在に残る多くの中世商業都市が形成されることになりました。

  • 陸のシルクロードの世界

陸のシルクロードにおける本格的な東西交易は、東に唐帝国、西にイスラム帝国が成立した以降と考えてよいでしょう。それまでのオアシス都市中継交易は短距離交易が中心でしたが、中継地が増えるにつれ、扱う品数も増えました。この中継交易形態がオアシス都市を発展させたのですが、漢や唐の時代には国境を越えた交易には厳しい規制がありました。

厳しい貿易管理下で活躍したのは、ソグド人でした。彼らは漢代から植民を進め、巨大な政治・経済ネットワークを築いていました。この人々が唐王朝に下り通行許可証を得て、シルクロード貿易の主役となったのです。しかしイスラム勢力の拡大に伴い、旧ササン朝のペルシャ人が中央アジアに進出して以降は、イスラム系ペルシャ人が交易を担うことになります。

一方、イスラム帝国ではウマイヤ朝の時代、アラブ貨幣を発行し流通させ、古代ペルシャの駅逓制を復活させます。アッバース朝の首都バグダードはチグリス河畔にあり、舟運を利用すればペルシャ湾からアラビア海、インド洋航路につながっていました。しかし、国際交易の通貨として貨幣として主に用いられたのは、アラブ貨幣ではなく中国の特産でありかつ価値の高い絹織物でした。

国際取引では、絹織物等の豪奢品に加え、奴隷と家畜も重要でした。ラクダの輸送力は船に比べると大幅に低く、旅程も過酷でした。軽い絹と自分で動ける馬や奴隷は手軽に輸送できる価値の高い商品だったのです。

また、8世紀にはすでに西アフリカの金はイスラム世界に注目され、彼らの制服戦争の軍資金となりました。12世紀に入ると金を求めて2000頭ものラクダの隊商が登場します。

このように、オアシスルートはユーラシアだけでなく、遠く西アフリカとも結ばれていたのです。

  • 海のシルクロード―ムスリム商人の活躍―

中国が海上貿易に本格的に乗り出したのは宋代に入ってからで、福建において多くのジャンク船が造られました。ジャンク船は木造の二重構造で、大型船になると、船内が房に区切られ、一部が浸水しても荷物を避難させることができました。ジャンク船は近代の鋼鉄船と同じ構造で、強度の確保と浸水拡大防止策が施されていたのです。乗組員は100~300名、積載量もヨーロッパ船を凌駕し、胡椒5000~6000籠を運べました。この商船は、小型船を伴った船団で運用されていました。

ジャンク船の就航に伴いこの時代にもたらされた新技術は、磁気コンパス(羅針盤)と測位器です。前者は中国で発明され12世紀末~13世紀初頭に西欧に伝わったようです。後者はアラビアで開発されました。

イスラム帝国はインド洋交易に深い関心を持ち、718年にはインダス川自下流のシンドを制圧します。これ以降ペルシャ湾、アラビア海、インド洋海域は大航海時代の到来まで「イスラムの海」となります。

宋代になるとムスリム商人は中国各地に進出し、活発な海上交易をまで行いました。ムスリム商人たちはインドや東南アジアの都市や中国沿岸都市に支店を設けたり移住したりして、海のシルクロード交易の広範なネットワークを築きました。

西アジアと中国との貿易関係はますます盛んになりましたが、中国産品が西アジアで需要の高いのに対して西アジア産品は貧弱でした。中国産品を仕入れるためには、インド洋や東南アジアで商品を買い、それらを持ち込んで支払に充てざるを得なかったのです。その結果、海のシルクロードにおいてムスリム商人たちは中継交易人の性格を強く帯びることになりました。

当時の地中海沿岸域に中国産品と交易できるほどの交易品がなかった理由は、ローマ亡き後の混乱状態による経済停滞です。しかし、イスラム世界の拡大は海のシルクロードを完成させたと同時に、地中海世界をも一変させました。イスラム帝国はビザンチン帝国と対立し、ローマ教皇の要請で十字軍が派遣されました。東ローマが死守したコンスタンティノープルには多くの商人が滞在し、東地中海の交易で栄えます。ジェノヴァやナポリなどの沿岸都市は、東方貿易に介在して繁栄しました。イタリア商人はムスリム商人がもたらした東南アジア、中国、インドの商品を扱い、地中海、黒海、大西洋、ヨーロッパの内陸部まで東洋の産物を届けました。

海のシルクロードが開通してから、東南アジアの島々の港市も自らインド東海岸や中国沿岸まで海上交易を行うようになりました。ジャンク船と羅針盤の開発によって、宋代に入ってからさらに大きな発展を遂げます。ジャンク船は巨大な積載量を誇り、宋銭や陶磁器の大量輸送を可能にし、中国商人の海外発展を促しました。のちに東南アジア経済を握る華僑の礎は、この時代に作られたのです。

  • シルクロード最果ての国・日本

日本は7世紀以降に隋・唐に使節を送り、大陸との交流を始めました。日本は新羅貿易を通じて中国や朝鮮の品々を輸入していましたが、白村江の戦いで朝廷軍が唐・新羅連合軍に敗れて以降、大陸への朝貢使節は渤海湾ルートから南海ルートに変化しました。平清盛が日宋貿易に積極的に乗り出したため、宋商人は坊津、今津、平戸、敦賀等で荘園貴族との直接貿易を行うようになります。二度にわたる元寇にもかかわらず、日元、日明貿易も大変盛んでした。勘合貿易以外に私貿易も行われましたが、倭寇の横行に悩まされた明朝は、海禁令を出して私貿易を取り締まりました。

  • ハンザ同盟と広域貿易

ヨーロッパの最果ては、北海・バルト海でした。ヨーロッパにおける中世の遠隔地貿易は、まず地中海を舞台とした南方の交易圏と北海・バルト海を舞台とした北方の交易圏の二方面で盛んになり、この南北を結ぶかたちでヨーロッパ内陸の交易が行われるようになりました。ヨーロッパ南北の2つの交易圏には、異なる特徴がありました。

地中海貿易の交易品の主流は、異国的で珍奇な品物でした。イタリア人を主とした商人はアジア・中近東からもたらされる品物を扱い、メディチ家のように金融業を営んで巨大な富を築くものも現れました。地中海の遠隔地貿易では、北イタリアのベネチアとジェノヴァが熾烈な覇権争いを行い、北方諸都市にも東洋の豪奢品をもたらしました。

一方、北方交易圏では穀物、生活必需品が主流でした。安価なため、大量に輸送しなければ利益になりません。北海・バルト海交易では貿易商人は仕入れ、運搬、販売を組織的に行う必要があり、初期は商人ギルド、のちには都市同盟を組織して協力して航路の安全確保や商圏の拡大をはかりました。12世紀頃から、商人たちはいくつかの海港都市ごとに団体を作るようになりました。貿易商人たちの団体が後のハンザ同盟の前身「商人ハンザ」だと考えられています。

商人ハンザの仲間は木材や穀物、毛皮を求めてイギリス、スカンジナビア、プロイセン、ロシアなどの外地に進出します。外地での共同利益を守るためのハンザは、14世紀中頃には「都市ハンザ」と呼ばれる諸都市同盟に発展していきました。同盟の中心となったリューベックは、ドイツ皇帝から特許状を得て自治権を認められていました。ドイツ都市以外にも、有力なハンザ同盟都市がありました。

ハンザ同盟は主要な外地に商館を置きましたが、特にイギリスのロンドン、フランドルのブリュージュ、ロシアのノヴゴロド、ノルウェーのベルゲンが四大外地商館として重要でした。これらの外地商館は現地の役人や商人と折衝しながら同盟都市の利益を守りました。

北海やバルト海で用いられた商船は、コグ船と呼ばれます。重ね張りの外板をもち、頑丈で重構造、乾舷が高く平底で船形はより肥大しています。このタイプの船が地中海タイプの船と融合し、大航海時代に活躍するキャラック船が生まれます。

以上のように、紀元1000年紀の中頃までに海陸のシルクロードが完成するとともに、紀元2000年紀に入ると北海・バルト海の交易圏と極東の日本を含む東シナ海交易圏が連鎖的につながり、「海の道」が完成したのです。海港の連鎖から始まった国際貿易は、それぞれにつながる内陸都市の経済発展をも促しました。

  • ユーラシア交易圏の完成―モンゴル帝国の誕生―

世界の激動が始まったのは、チンギスが皇帝(ハーン)の座についたことがきっかけでした。チンギス・ハーンの軍隊は金を破り北京以北の草原地帯を支配下に置いた後西に向かい、西遼とホラズム・シャー朝を征服します。後継者のオゴタイはカラコルムに首都を築き、駅伝制を整備します。チンギスの後継者たちはイランのバグダード、シリアのアレッポ、ロシア等とその後も征服を続け、日本と琉球以外のアジアの海域諸国、イランのホルムズやペルシャに至る海上ルートもモンゴルの統制下に入ります。モンゴルのもとで、インド洋の東西通商は非常に栄えました。

ここにおいて内陸と海洋の通商ルートが結合し、ユーラシアを循環する交通・輸送体系と世界通商圏が誕生しました。クビライ以降の大元ウルス政権は、軍事力維持と経済コントロールを国家運営の柱としました。遠距離商人の保護・育成と経由地での中間関税の撤廃を眼目とする自由貿易主義・通商振興政策を掲げ、ユーラシア規模での通商を国家が進んで後押ししたのです。この経済政策を支えたのは、イラン系ムスリム商人群とウイグル商人勢力であったと考えられます。

モンゴル帝国は、中央ユーラシア交易商業に精通した商業資本によって運営されたという面も持っていました。同じことが海上交易でも起こっています。以前からインド洋で交易を行っていたイスラム商人と大元ウルスとが結びついたのです。南宋から大元ウルスに至る時期泉州に在住していた蒲寿庚というムスリム商人が大元国に与し、南宋の滅亡に加担して貿易の繁栄に尽力しました。これはモンゴル政権とムスリム海上交易のリンクを体現するものでした。

 

今回は範囲が広くなったので、長くなってしまいました。陸ではラクダの隊商とオアシス都市の発達、海ではインド洋航路の発見と中国でのジャンク船の開発を経て、西と東が完全に繋がりました。猛烈な勢いで周囲を征服していったモンゴル帝国は、周囲の国に対する脅威であっただけではなく、積極的な貿易政策によってイスラム商人と結びつき、中央ユーラシアの交易を大きく進化させました。一方ヨーロッパでは地中海での豪奢品貿易が豪商を生み、それが豊かな文化の隆興に繋がります。厳しい環境の北ヨーロッパでは商人たちが同盟を組んで各地に商館を築き、着実に力をつけていきます。

次回は、キャラベル船の開発によっていよいよ大航海時代が始まります。子どもの頃幾多の海洋冒険譚に胸躍らせた方々は、その主人公たちを思い描いてみるとより楽しいかもしれません。