『文明の物流史観』【物流から歴史を視る!人類はどうやってモノを運び売ってきたか?】

【第9回:交易の歴史的変遷と文明―交易の視点から歴史を見直す】⑥第八次輸送革命~キャラベル船と大航海時代~

『文明の物流史観』解説第9回です。西と東での大帝国の勃興によって東と西がつながり、さらにモンゴル帝国の台頭によって交易の東西循環ルートが成立しました。今回はキャラベル船の開発によって西側世界が交易の主役に躍り出し、交易のグローバル・ネットワークが完成します。大航海時代はスペインとポルトガルが注目されがちですが、その陰で中国でも変化が起こり、陸のシルクロードを衰退させる原因のひとつを作っていました。また、当時価値の高い資源に乏しかった西側世界は、銀をはじめとする貴重品をどのように入手していたのでしょう?この銀の流れが変わったことそのものが、世界の貿易に非常に大きな影響を及ぼすことになりました。

5.9 第八次輸送革命:キャラベル船の開発と大航海時代

第八次輸送革命は、大航海時代に始まった新航路の開発と銀の流れの大変化です。物流ルートの変化は、大帝国を作り上げたチンギス・ハーン亡きあとに始まりました。14世紀に起こった寒冷化が、世界を混乱の渦に巻き込みます。輸送革命は、この混乱期を経て実現されたのです。

変化は、中央アジア、シルクロードの中核地帯で始まりました。西に進出したモンゴルは、モンゴル統治下でイスラム信仰が定着したこともあり、この地でトルコ人ムスリムと混じって一つの文化圏を形成します。モンゴル政権が潰えたのちに興ったティムール帝国も、モンゴルの流れを汲むものでした。

ティムールはサマルカンドを中心に一大帝国を築きました。15世紀には世界の中心として主要なオアシス都市に一大文明が開化し、繁栄を誇りました。しかし、それも長くは続きません。大航海時代の幕開けとともに、陸路の隊商交易に依存していた陸のシルクロードが衰退していったことが最大の原因です。

一方、旧ペルシャの領域ではサファヴィ朝が興り、セルジュックトルコを滅ぼしたオスマン帝国と対立しました。オスマン帝国はバルカンに進出しキリスト教諸国を服属させます。1453年にはコンスタンティノープルを制圧し、東ローマ帝国を滅ぼします。この時多くのギリシャ人や知識人がイタリアに逃れ、イタリア・ルネッサンスの原動力となります。オスマン帝国はさらに拡大を続け、アジア・ヨーロッパ・アフリカの3大陸にまたがる大帝国に成長します。

オスマン帝国の支配とともに、古代~中世と続いてきた地中海世界はついに終焉を迎えます。生き残ったのは、中継貿易に徹したベネチア・ジェノヴァだけでした。地中海の東方貿易の窓口を塞がれたキリスト教諸国は東方の窓口の探索に乗り出しました。

東の中国では、寒冷化で混乱を来したモンゴルを紅巾賊が北に追いやり、南京を首都とする明帝国を建国しました。明はモンゴルの南下を防ぐため長城を復活させましたが、そのため同時に商流も止まってしまいました。これが陸のシルクロードの衰退の直接的な原因となりました。その一方で明は海上貿易には力を入れ、周辺の国に朝貢貿易を求めました。その後の永楽帝は都を北京へ移し、黒龍江下流から樺太までを支配下に収めました。

大航海時代の幕開けは、この明の永楽帝の時代に始まります。永楽帝は華北と華南の経済を一本化するとともに、遠くアフリカの東海岸にまで朝貢貿易を求めました。

女真族がヌルハチのもとに統一されて後金国が興り、長城を越えて中国に侵入を開始します。その後国名を大清と改め、東部モンゴルから朝鮮半島までを支配し、多民族国家を樹立しました。清朝は明の抵抗を封じるため1656年に海禁令を敷いて沿岸域の交易を禁止し、やがて台湾を征伐し領土とします。

この時期、ユーラシア大陸の外にも新しい文明が花開いていました。のちにコロンブスによって新大陸と呼ばれた南北アメリカ大陸の文明です。メソアメリカではマヤ文明、その後アステカ文明が勃興しました。アステカでは道路網が整備され、それを通じて諸地域の産物がアステカに集まり、繁栄を支えました。

南アメリカのアンデスに花開いたアンデス文明は13世紀頃にはインカ帝国によって統一され、16世紀にスペインに滅ぼされるまで繁栄を続けました。インカ帝国は首都クスコを中心に全長3万キロにも及ぶインカ王道を建設して帝国全体の軍事・政治・経済のネットワークとしました。

しかし、これらの中南米に栄えた文明は、スペインの征服者や彼らが持ち込んだ伝染病によって滅んでしまいます。

  • 明の朝貢貿易と鄭和の大遠征

明は洪武帝の時代に南海貿易に力を入れ、東アジア、東南アジアの国々に使節を派遣して朝貢貿易を求めました。永楽帝の時代には、鄭和に命じて第一次~七次に渡って艦隊を派遣します。遠征は東南アジア諸地域、インド沿岸、ペルシャ湾岸に及び、艦隊の一部はアフリカ東部にまで至っています。

このような朝貢貿易の形成は、明の海禁政策と表裏をなします。沿岸部の抵抗を封じるための私貿易の禁止が、かえって密売や海賊の横行を助長しました。しかし朝貢貿易が軌道に乗り、沿岸部の秩序も安定しました。

日本は1404年、足利義満が朝貢貿易を復活させました。各地で私貿易も盛んになり、三津七湊が海外貿易の窓口として知られるようになりました。堺や博多の発展は地中海のベネチアやジェノヴァの発展と同時期で、洋の東西で商人資本が力を持った沿岸都市が海上貿易のターミナルとして栄えたことは、この時代の象徴といえるでしょう。

琉球王朝は毎年明に貿易船を送り、日本と朝鮮及び南海諸国に転売する中継貿易で栄え、薩摩の属領となってからは薩摩の密貿易の窓口を兼ねるようになりました。この琉球の中継貿易は、東シナ海に西欧勢力が参入してくるまで続きます。

  • 大航海時代とグローバル・ネットワークの完成

8世紀以降、イベリア半島はイスラム勢力の支配下にありました。キリスト教徒によるレコンキスタにより、1492年、イベリア半島はカスティリャ王国(スペイン)とポルトガル王国のものとなります。しかし地中海は依然としてオスマントルコの支配下にあり、東方貿易はイスラム勢力下にありました。

そこで始まったのがスペインとポルトガルによる新たな大西洋周りのインドへの航路探索競争です。ポルトガルのエンリケ航海王子はリスボンに造船所と航海研究所を設立し、本格的な航路探索活動に乗り出します。まず必要だったのが、船の開発でした。イスラムのダウ船とヴァイキングの造船技術をヒントにガレー船を改良し、カラベラ船とキャラック船を開発します。ポルトガルは航海の途中で次々と大西洋の島を発見し、領土化していきました。

コロンブスはスペイン女王に許可を与えられ、「黄金の国」ジパングとインドに向けて出発しましたが、インドには辿り着けませんでした。後に続いたベスブッチによって、コロンブスが到着していたのが「新大陸」であったことが発見されます。

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマは1498年に喜望峰を回ってインドのゴアへの航海を成功させます。こうしてスペインとポルトガルは新しい非キリスト教の天地を発見していきますが、両国は発見した領土の帰属について衝突を繰り返しました。そのため当時の教皇によって、境界が定められました。こうして「新大陸」はスペイン領土、アフリカと東シナ海に至る非キリスト教の土地はポルトガルの領土となっていきます。

喜望峰迂回インド航路の発見において何よりも重要なのは、ベネチア等既存の中継都市を経由しない香辛料輸入ルートを開発したことです。これでポルトガルはイスラム勢力の影響を受けず、香辛料貿易の利権を独占できることになりました。ムスリム商人はこれに対抗する手段を持たず、次第に東方貿易から駆逐されていきます。

スペインは苦戦していましたが、母国を裏切ったポルトガル人マゼランがセビリアから新大陸を迂回しマゼラン海峡を通り、太平洋へ出てティドール島に到着します。インド洋から喜望峰周りで大西洋に出てスペインに戻り、世界一周を成し遂げるとともに、独自の香辛料輸入ルートを確立したのです。

両国は覇権争いを繰り返し、新大陸諸国や東南アジア、インドに植民都市を築きます。その流れの中でポルトガル船の漂着によって日本に鉄砲が伝わり、南蛮貿易に乗り出す領主も現れます。ポルトガル船やスペイン船も日本を訪れるようになり、スペインのイエズス会の神父たちは、布教とともに西洋文明を日本に伝えました。

新航路発見によって起こった変化は、地中海の中継貿易の衰退と、新航路貿易の興隆です。これによって新大陸とユーラシア大陸が一つの交易圏となり、物流のグローバル・ネットワークが完成しました。しかし依然として、西のヨーロッパから東洋に売る価値のある独自の商品はありませんでした。変化したのは銀の流れだけなのです。

その変化の鍵は、新大陸にありました。大西洋を挟んでアフリカと新大陸の新しい物流構造が生まれました。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病によって激減した西インド諸島の労働力を補うため、ポルトガルとスペインはアフリカから大量の黒人奴隷を中南米に運び、現地住民とともに銀の採掘に従事させたのです。こうして得た銀をスペインはマニラに輸送し、東方貿易の基地として商品を大量に仕入れました。この頃日本でも銀山が開発され、大量の銀が中国、ポルトガル、スペインに流れています。

この銀によって国際貿易と商業は活発化しますが、ポルトガルもスペインもこの銀を国内の産業投資には用いず、王室の消費に回してしまいました。必然的に市場に銀が溢れ猛烈なインフレが起こり、物価の高騰が貴族階級の没落を引き起こします。しかし、スペイン経由でヨーロッパにばらまかれた銀は、他のキリスト教国にとっては追い風となりました。

大航海時代は、ポルトガルとスペインによる喜望峰回りのインド洋航路の開発と大西洋航路の開発及び新大陸発見による新しい奴隷貿易と銀の流れの変化であるといえるでしょう。しかしその繁栄も長くは続かず、後に海上の覇権はイギリスに移ります。

また、次第に衰退しつつあった陸のシルクロードとオアシス都市は完全に海の道にとって代わられ、歴史の表舞台から退場しました。

  • 東方貿易の派遣争いと物流の変化

次に台頭してきたのは、イギリスとオランダでした。オランダは早くから毛織物製造の加工貿易で栄えてきましたが、バルト海地方から輸入した物資をヨーロッパ各地に運搬して巨額の利益を得、ヨーロッパの物流の中心として繁栄したのです。やがて1602年に「連合東インド会社」を設立し、東方貿易への参入を進めました。オランダはスペイン・ポルトガルに代わりアジア内中継貿易を兼ねる東方貿易を独占するに至ります。

一方北海・バルト海・地中海を結ぶ貿易で発展の基礎を築いてきたイギリスは、大西洋貿易や東方貿易に参入する機会を狙い、スペイン商船を攻撃していました。ドレイク率いる英国艦隊の勝利以降スペインの制海権は急激に衰えます。イギリスは1600年に東インド会社を設立し、東方貿易に乗り出しました。アジアの海域の派遣を巡り、スペイン・ポルトガル・イギリス・オランダの四国は衝突を繰り返します。オランダがイギリスの商館を襲撃したアンボイナ事件後、イギリスは拠点を東南アジアからインドに移し、二国は戦争状態に突入します。

インドのイギリス東インド会社も1604年に設立されたフランスの東インド会社と争いますが、やがてフランスを破り、インドにおける覇権を確立します。以後イギリス東インド会社は、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになりました。

日本は徳川幕府による鎖国政策に移行し、長崎でのオランダ・中国との交易のみが許可されていました。中国の明朝、清朝も鎖国を基本とし、広州のみを外国との窓口としています。オランダはこれ以降、日本の金・銀を独占します。イギリスは自国の植民地から他国船を締め出し、英蘭戦争でオランダに勝利したことによって海上支配権を得ます。イギリスは中国貿易に乗り出して、広州や寧波で貿易を行いました。

以上のような経緯で、東方貿易にはポルトガル・スペインの後にオランダ・イギリス、大西洋貿易にはイギリスが新たに参入していました。オランダはインドの毛織物を東南アジアに転売して香料を仕入れ、中国の磁器・生糸・絹を日本に転売し、日本から得た金・銀を本国に持ち帰っていました。イギリスは大西洋三角貿易を握り、本国から綿織物や鉄砲を西アフリカに輸出し、西アフリカから奴隷を中南米・北米に輸出しました。中南米の植民地からは砂糖・タバコ・綿花などを本国に持ち帰りました。さらに銀を支払って中国から磁器・絹・茶を本国に輸入します。のちに中国貿易での赤字を埋めるためインドでアヘンを栽培し、これを中国に輸出するようになりますが、本格化するのは産業革命後のことです。

 

「大航海時代」の始まりによって、新航路と新大陸が発見され、西側世界は東方貿易に相次いで乗り出しました。陸の東西交易ルートであるシルクロードとオアシス都市は衰退を余儀なくされます。インドや東南アジアは東方貿易の拠点となり、スペイン・ポルトガル・イギリス・オランダは覇権を争って衝突を繰り返しました。

新大陸からもたらされた食料や資源によってヨーロッパは豊かになり、多くの一般市民が貨幣経済に参入したことによって新しい身分と階級が生じます。イギリスは世界の市場を制圧し、自国内に元々豊富な石炭と鉄鉱石を利用して蒸気力による動力革命を起こします。イギリスは蒸気船を用いて海を制覇し、ついに中国をも圧倒するのです。

次回は産業革命によってイギリスが世界の物流を握る様子を、商業と工業から描きます。