『文明の物流史観』【物流から歴史を視る!人類はどうやってモノを運び売ってきたか?】

【第10回:交易の歴史的変遷と文明―交易の視点から歴史を見直す】⑦第九次輸送革命~動力輸送機関の登場と産業革命~

『文明の物流史観』解説も第10回目となりました。大航海時代に発見された新航路と新大陸は、ヨーロッパの経済を押し上げる資源の源となりました。急速に成長したヨーロッパにおいて、イギリスが蒸気機関の発明によって物流のみならず経済をも抜本的に変化させます。

植民地を前提とした経済構造は、西欧世界の覇権争いにどのような影響を与えたのでしょうか。また、強力な輸送機関の開発は物流構造を変え、東西の力関係をも変えていきます。

5.10 第九次輸送革命:動力輸送機関の登場と産業革命

第九次輸送革命は、人類が成し遂げた四大輸送技術の一つでもあります。第一は車輪の発明、第二次は風帆船の発明、第三が動力エネルギーの発明です。特に動力機関の発明は、物流をドラスティックに変化させました。

  • イギリスの重商主義と物流の変化

15世紀末に始まった大航海時代は新大陸の発見と新航路の開発にとどまりませんでした。新大陸からもたらされたジャガイモやトウモロコシなどの新しい作物がヨーロッパの食料事情と農業を劇的に改善します。ジャガイモは痩せた土地でも育ち、飢饉を防いでくれました。またこの頃から牧草の栽培も始まり、家畜を安定的に飼育できるようになります。その糞を肥料として使うことで農業生産の増大も期待でき、人口増大を支えることができました。

18世紀になると、経済の在り方も大きく変化します。農民をはじめとする国民の大多数が商品経済に巻き込まれるようになったのです。農業が発展すると農民の一部は副業として家内工業を始め、その生産物を市場で売って貨幣経済に参入しました。農村共同体の一部であった農民が、経済活動の主体として自由を知ることになったのです。このことがやがて、新しい身分と階級を生むことになります。

一方、都市ではギルド共同体が崩壊し始めました。ギルドの制約を逃れ、農村工業という形で新しい工業を展開する人々が現れます。産業革命に先立って、ヨーロッパの様々な地域で展開されたこれらの農村工業が、工業化の出発点だったのです。こうして富裕な農村工業の経営者や都市の問屋商人たちは資本を蓄積し新しい富裕層(ブルジョワジー)となり、政治的な発言力を拡大させていきました。

このような状況を背景に、イギリスやオランダは世界の貿易に登場してきたのです。オランダは中継貿易で繁栄していましたが、イギリスが航海条例で自国領土内での他国船による取引を禁止して以降、世界貿易から締め出されてしまいました。これに代わって、イギリスとフランスが市場の支配に乗り出します。イギリスが東インド会社の武力で勢力を拡大し北アメリカにも植民地を設ける一方、フランスも北米大陸や西インド諸島、インドに拠点を建設しました。両国の植民地経営は綿花などのプランテーションの建設を中心に進められましたが、不足する労働力はアフリカ西海岸から大量の奴隷を輸入することで補いました。やがてイギリスがスペインとフランスを圧倒し、スペインからフロリダ、フランスからはカナダ等を獲得しました。

相次ぐ戦争は、イギリス本国や東インド会社の財政を圧迫しました。これを解決するため、イギリスは航海条例で外国船を締め出すと同時に植民地からの収奪を強化していきました。植民地からの輸出禁止や高い税率、加工の禁止などです。植民地の人々は反対運動を起こし、アメリカではついに1776年7月4日独立宣言が発せられ、独立戦争が拡大していくことになります。

イギリスはこのような一連の政策により、世界の市場を制圧していきました。この頃の世界貿易では、ヨーロッパ~西インド諸島~西アフリカの間には三角貿易が成立していました。この三角貿易には西アフリカからアメリカに向かう奴隷貿易が絡み合っていました。独立を達成したアメリカは、カナダを巡ってイギリスと争い、勝利します。これによりアメリカ産業はイギリス依存から完全に脱却し、独自の工業化を始めました。先住民を排除したジョージアやアラバマで、白人開拓者によって広大な綿花プランテーションが創られました。労働力不足により黒人奴隷への依存度を高めた南部の経営者は奴隷制維持を主張し、北部の奴隷制廃止、連邦主義、保護貿易主義に反発します。このことが南北戦争につながりました。

  • 動力革命と物流革命

紡績機・織機の機械化をきっかけとして産業全体の機械化が始まりましたが、最大の技術革新は蒸気力の発明でした。ワットによって蒸気力が蒸気機関に応用され生産動力として導入されると、産業の生産性は飛躍的に向上しました。イギリスは燃料として必要な石炭と機械化に必要な鉄鉱石という資源を国内に持っていたので、スムーズに機械化を進めることができました。

蒸気機関の発明は陸上では蒸気機関車、海上では蒸気船を生み出しました。大量輸送の主役は船でしたが、鉄道は河川や運河での輸送の欠点を補うものとして注目され、急速にネットワークを拡大しました。

鉄道はその後、急激に世界に広がりました。イギリスに続いてフランス、ドイツ、ロシア等、続いて日本が鉄道整備を進めていきます。アメリカもその後国土の拡大と同時に大陸横断鉄道等を開発しています。鉄道の発展は人の移動だけでなく、定期性と運賃の安さから陸上物流の主役となっていきました。

一方蒸気船は1807年にニューヨーク⇔オールバニー間に定期航路が開設されて以来急速にネットワーク拡大と船の大型化を進めました。貨物船については20世紀初頭には2万トン級が最大となりましたが、このクラスの貨物船が寄港できる港はまだ少なく、寄港地は限られていました。

蒸気船の普及は人とモノの移動の定時制を確保し、移動時間とコストを削減し、地域による価格差を小さくして消費市場の拡大を促しました。19世紀半ば頃から西欧列強は競って蒸気船を導入し、これを中国貿易に用いました。イギリスは世界の海上貿易の掌握を目指しており、中国や日本等、対アジアにおいてもその傾向は顕著でした。

モノの流れがアジア→ヨーロッパという時代が2000年近く続いてきましたが、産業革命による消費財の大量生産は本格的な消費生活を促すことになり、あらゆる工業製品が世界の国々に届けられるようになりました。新大陸の植民地化が進むにつれて大西洋三角交易が出現しましたが、アジアとの貿易はまだ輸入超過でした。

中国・清朝の鎖国的貿易政策に苦しんだイギリスは自由貿易の要求を繰り返しますが、すべて却下されます。そこでイギリスはインドで栽培したアヘンを銀に代わる茶の代金として中国に密輸入しました。このことによって銀の流れが逆流します。その結果起こったアヘン戦争においてイギリスが勝利し、南京条約が結ばれます。広州をはじめとした5港の開港、行商制度の廃止、対等交渉、賠償金の支払い等が主な内容です。これ以降中国は列強に対し弱体化していくことになります。

同じ頃、ロシアは南下政策を進めていました。オスマン帝国を破り、ブルガリアを実質上支配しました。その後清朝と対立して黒龍江以北をロシア領とします。沿海州の不凍港を手に入れたロシアは極東進出への足掛かりを築きます。その後もロシアの南下は止まらず、江戸時代末期には樺太に侵入します。この拡大政策の進行は、後の日露戦争の原因となりました。

  • スエズ運河の開通

この時代の物流史上もうひとつの大きな出来事はスエズ運河の開通です。西欧世界にとって、インドや東南アジア、中国へのアクセスは苦難の連続でした。喜望峰周りの航路が発見されてようやく、ヨーロッパ世界は地中海世界の中継なしに直接アジアに到達できるようになりました。蒸気機関の発明により季節を問わず大量輸送が可能になったとはいえ、喜望峰周りの航路には時間と燃料がかかります。そこで、イギリスはオスマントルコのエジプト総督に資金と技術を提供し、ポート・サイド~スエズ間に喜望峰ルートより低コスト・短期で済むルートを開発しました。

一方、フランスの駐エジプト公使フェルディナン・ド・レセップスはエジプト総督に働きかけ運河建設と運が経営権を獲得し「スエズ運河会社」を設立、運河開削に着工しました。しかし、運河開通後に外債に苦しんだエジプト総督は所有株式をすべてイギリスに売却してしまいます。これによりイギリス商船はすべて運河を通行可能になり、実質上イギリスが運河を支配することになりました。おのことが、「海の帝国・イギリス」誕生の大きなきっかけになりました。

大航海時代に得た新大陸からの新作物や奴隷といった資源によって、西欧諸国、特にイギリスは爆発的な発展を遂げます。食料事情の改善は産業構造だけでなく市民の在り方自体を変え、新しい身分が出現しました。快進撃を続けるイギリスは先んじて産業革命・動力革命を起こします。陸上では蒸気機関車による鉄道網の整備、海上では蒸気船の開発で、世界の物流の在り方は一変しました。覇権争いに勝利したイギリスは、世界の物流を握ります、

イギリスの政策は各地で反発を呼び、アメリカは独立しますが、イギリスの勢いは止まりません。ついに中国に対しても勝利し、アジアの交易をも手中に収めます。

次回は、1960年代から現在に至るまでの状況をみていきます。この時代の物流において、もっとも革命的なことは何でしょうか?「大きな貨物船」や「貨物列車」を想像してみたとき、そこに載っている四角い箱、「コンテナ」の発明です。決まった大きさで列車にも船にも車にも積めるコンテナは、世界の物流を一変させたのです。