ヒューマンファクターというのは、奥も深いが非常に幅広い概念の学問である。日本ヒューマンファクター研究所はヒューマンファクターを実践的学問と捉えて、心理学(認知心理学、行動心理学など)、生理学、医学、哲学、倫理学、人間工学など、およそ人間の営みにかかわる学問すべてを包含した学問と考えている。しかもそれは学んで終わりの学問ではなく、学んだものから人間の行動を社会に役立たせるための実践的な学問であると考えられる。
このような考えからすると、ヒューマンファクターの知見はいろいろな場で使うことができる。単に工場の作業者等によるヒューマンエラーを防ぐために何をしたらよいかというようなことだけではなく、家庭の中の人間関係や教育のあり方、企業の経営に必要な人間の特性に関する知見、職場を活性化したり、スポーツで選手のやる気を引き出す方法など、あらゆる人の営みに効果を与えることのできる学問である。
多くのヒューマンファクターの研究者に今までバイブルのように読まれてきた書籍は、オランダKLM 航空のホーキンズ機長が著した「ヒューマンファクター」と日本ヒューマンファクター研究所の初代所長黒田勲博士の「信じられない事故はなぜ起こる」であろう。この両著は、ヒューマンファクターの基礎を学ぶ者にとって恰好のガイドである。もちろん今もこの二つの著作は、これからヒューマンファクターの勉強を始めようという方たちにはよいガイドブックではあるが、一部内容が新しい理論に変わってきたものがある。
1998年に設立された日本ヒューマンファクター研究所は、2018年11月に剏立20周年を迎え、この20年の研究成果を取りまとめて新しいヒューマンファクターのガイドを発表することとなった。内容的には上記の著作にはない新しい知見が取り入れられているほか、日本ヒューマンファクター研究所独自の研究成果も数多く盛り込まれている。
ひとつは「ヒューマンファクターの基礎知識」を記述した部分、もうひとつはその知識に基づいて「社会安全のために」を記述した部分である。日本ヒューマンファクター研究所は、何のためにヒューマンファクターを研究しているのかというと、それは少しでも社会の安全性向上に寄与したいという願いからである。したがって、ヒューマンファクターの基礎知識に加えて、社会安全のために必要な知識も組み込んである。
大まかに言うと、ヒューマンファクターの基礎知識に該当する部分は第1章から第4章まで、第5 章から第10 章までは社会安全のための知見である。ヒューマンファクターの基礎だけを知りたい方は第4章までを、ヒューマンファクターについての知識があり社会安全のための知識を得たい方は第5 章以下をお読みになればその目的を果たすことができるはずである。
実際に起こった大きな事故をもとにした映画が、これまで色々作られています。船や鉄道、航空機では、『タイタニック』、『アンストッパブル』『ハドソン川の奇跡』あたりが有名でしょうか。事態をより悪化させてしまい最終的に大きな悲劇を招くか、運転士やパイロットの判断が功を奏して被害を最小にできるか、実話ゆえに結末を知っていることが多いにもかかわらず、ハラハラしてしまいます。
実は、こうした重大事故に関しての研究が進むにつれてわかってきたことがあります。機械の故障やシステムエラーよりも、「人間のミス」による事故が多いということです。アメリカをはじめとした世界の航空業界で、「ヒューマンファクター」の重要性が強く認識されるようになりました。
しかしこれは、その操作をしている人間が不注意だったせいだとするものではありません。人間の脳の仕組み、見づらい計器、間違えやすい操作方法、無理のあるシフト、厳しすぎる労働環境、そういったものが人間に「エラーを起こさせている」のでは?という考え方が現れたのです。
人は判断や操作をどのようなときに誤るのか?システムとしての人間の癖とは?エラーはなぜ起こるのか?ミスを招く仕組みとは?あらゆる仕事や生活の現場で、人間は日々間違えます。しかしその間違いを事前に防いだり、間違っても重大事故につながらないような仕組みを作ったりすることは可能です。
今回ご紹介する『ヒューマンファクター』では、人間の仕組みとエラーの起こる仕組みについて、事故における人的要素の基礎を解説します。後半では前半の知識を現場でどのように生かし、社会をより安全にしていくかについて提案を行います。管理者だけでなく、新人のテキストとしてもおすすめです。
この記事の著者
スタッフM:読書が好きなことはもちろん、読んだ本を要約することも趣味の一つ。趣味が講じて、コラムの担当に。
『ヒューマンファクター』はこんな方におすすめ!
- 工場、インフラ業等で管理業務に従事する方
- 製造業・インフラ業等で新人研修に関わる方
- 安全工学を学ぶ学生
『ヒューマンファクター』から抜粋して3つご紹介
人間の脳の重要な入力情報を処理する中枢処理系には、複数の重要な入力情報を同時に処理するのは難しいという弱点があります。このため脳の情報処理にはいくつかの工夫がこらされていますが、この工夫がヒューマンエラーを誘発する要素になることがあるのです。
(1)第1の工夫 (入力情報の絞り込み)の場合
各種感覚器官は、多様な外界刺激の中から受容可能な刺激(適刺激)のみを受容します。 次に、脳は必要な情報のみを取捨選択し、受け入れています(選択的注意)。つまり受容器と脳による絞り込みで、大量の情報が失われているのです。これは不注意ではなく、人間の特性による能力とその限界であるといえるでしょう。
複数の目標が存在するときなどには、優先順位付けの混乱や眼前の目標へのこだわりなどの高次意識からの介入によりエラーを生ずる可能性があります。さらに、悲しみや驚といったより基本的な情動系からの即時的介入もあります。ここに「不注意」のメカニズムが基本的に内蔵されているといえます。
(2)第2の工夫 (短期記憶の要素)の場合
短期記憶は、一時的に保持しておいて中枢処理が空き次第処理しようという機構です。短期記憶は再生までに許される時間が10から20秒程度で、再生中にもどんどん忘れてしまうという特性があります。しかも他からの情報が入ると忘却してしまいます。これが干渉効果(順向抑制、逆向抑制)による忘却、つまり「忘れていた」というエラーを生む素地になっているのです。
(3)第3の工夫(出力に直接つながる短絡回路)の場合
熱いものに触ったら反射的に手を引っ込めるといった本能的な行動の自動化や習慣化は、そのまま行為に向けられます。このような行動は自覚したものではないので、エラーを誘発する要素になる場合があります。
(4)第4の工夫 (人間脳の働き)の場合
伝達過程において、ニューロン(神経線維)を経由するたびに、意図や感情、環境、習慣、雰囲気などにより入力情報は複雑に変形します。この点が人間の情報処理の理解を最も困難にしているところです。
人間脳はコンピュータの中央処理機能と類似していますが、本能や情緒、意欲などの中枢である原始脳や動物脳などと連携して作動しており、情緒的特性や社会心理的特性を持っています。これが「焦り」や「慢心」というエラーの基になっています。
《期待値の課題設定》
要求度が能力を超えた過大なものになると、エラーの可能性が高くなります。人間は最大値を常に発揮しているわけではなく、通常値はそれを大きく下回っていることが一般的です。ヒューマンファクターを考慮しない要求を人間に求めること(期待値の過大設定)は、ミスを招くことになります。期待値の過大設定は、日常の作業の中に次のような形で現れます。
・納期や工事日程などの時間的な制約
・似たような種類の作業が多いにもかかわらず、現場の注意力に頼る
・割り込み発生が多く、作業中断が頻繁に起こる
・同時に複数の作業を並行して行う
・業務指示に変更が多い
・複雑な操作を定めると、その一部を省略する
そのような状況下で作業する人間は、次のような行動をとりがちになります。
・パニックに陥ったときは、簡単な操作しかできない
・作業効率を阻害するような安全装置を外してしまう
・簡単に見つからない緊急手順書などは使用しない
・動いている回転体や装置を止めようとしない
・故障から復旧するために、スイッチ類を無闇にいじる
・作業が連続してくると、誤った操作のもたらす結果を考えなくなる
これらの行動がヒューマンエラーの発生要因となるのです。
考え事に集中していたときに電話を受けたら、さっき「やらなければ」と思っていたことを忘れた、今まさにメモに残そうとしていたのに、声をかけられた瞬間に忘れてしまう、というのは誰しも時々はあることかと思いますが、こうした人間の脳のうっかりが大きなエラーを招かないように仕組みを整える必要があるのですね。
事象分析の方法と分類
《事象の分析及び対策の基本的な流れ》
発生事象の原因を追究するためには、次のような段階を踏んで分析を行い、防止対策を立てることが望ましいでしょう。
① 発生した事象を客観的に把握する
② 調査結果に基づき、経緯を整理する
③ 直接原因を特定する
④ 直接原因に対する対策を実施する
⑤ 背後要因を確認あるいは推定する
⑥ 背後要因に対する対策を実施する
⑦ 要因対象を背後の組織的環境等に拡大した組織要因についても検討を行う
⑧ 実施した対策の効果検証あるいは改善の実施
これらをどのように行うか、どの程度追求するかは、発生した事象により異なります。
《分析手法の分類》
どのような分析手法が最も適切であるかは、発生事象の形態、対策の目的等によって異なります。要因分類型、過程型、関連組織型、人間特性型、リスク評価型あるいはそれらの統合型などを主な分類として、代表的な手法を紹介します。
(1)要因分類型
直接原因、背後要因を一定の様式により洗い出すもので、比較的複雑ではなく、要因相互が独立して考えられるような場合に適しています。
・SHEL(M-SHEL)分析
・4M-4(5)E 分析
・CREAM
・BTM分析
(2)過程関連型(階層型)
過程や要因相互の関係の変化に着目し、全体像の把握を容易にするものです。事故に関連する重要な要因を発見でき、さらに背後要因を掘り下げることにより具体的な対策を導くことができます。
・FTA
・VTA
・SAFER
階層型の一種で事象発生要因を段階的にたどる手法として、
・なぜなぜ分析
がありますが、他の分析手法の中間段階の手段として使われる場合が多くなっています。
(3)組織関連型
組織あるいは機能の連鎖が事故の引き金になるという考え方から、組織要因または機能要因に着目して分析する手法です。
・トライポッドベータ
・FRAM
(4)人間特性型
問題発生に関与した当事者自身の認識から行動に至る過程を分析し、さらにそれらに影響を与えた周辺の要因を区分し追求する手法です。
・J-HPES
・PSF分析
(5)リスク評価型
要因分析の結果は通常対策として反映されますが、対策は、同題事象発生の頻度、再発防止の効果、費用、社会的影響などを総合的に評価して決定されることが多くなっています。
・ETA
・FMEA
分析手法が多数あるのは、分析対象事象が多岐にわたる分野で発生するため、それぞれ一番適合したものが選択されているからと思われます。実施状況に合わせて変形させたり、いくつかの手法を組み合わせたりして使用する場合もあります。
事象分析の過程においては正確な情報を提出し、あくまで客観的に分析を行い、分析結果に基づいた防止対策を確実に実行し、実施できているかどうかを常に確認できるような組織環境を確立しておくこともまた重要かと思います。
TRMスキルの発揮
TRMスキルとは、不測の事態や困難な状況に直面しても、チームによる創造性と相乗効果を高めてよりよい解決策を考え出し、解決策を適切に実行に移して対処していくためのテクニックのことです。
(1)コミュニケーションのスキル
コミュニケーションは、二人以上の人間が「伝えたいこと」を自分の解釈に従い「記号(サイン)」に変えて伝達し、それが共有されたと確認することです。送り手と受け手の間には「記号」 が介在するため、記号の解釈等を巡ってエラーが発生することになります。
① 伝達と確認
コミュニケーションは一方通行ではなく、正しく伝わったかどうかを確認する必要があります。送り手はわかりやすい言葉を使うなど受け手の立場に立った発信が必要であり、受け手は送り手に積極的に質問し、誤解が生じないようにする必要があります。
② 意図開示
業務に関する意見・提案などは率直に述べられるべきで、安全上必要な場合には、より強く主張することが重要です。また現場では積極的に情報を共有することが重要です。
③打合せ(ブリーフィング)
打合せとは、作業開始前、作業途中で状況が変化した場合、作業終了後の振り返りなど、業務のあらゆる局面で情報交換のために設定される場です。打合せの場を効果的に設定することにより、 情報の交換と共有が促進されます。
④ 一人作業におけるコミュニケーション
作業に合わせてその内容を声に出すことは、自分自身のダブルチェックになり、注意を焦点化できます。また、有意識化することにより記憶に残すこともできます。
(2)チームづくりのスキル
チームづくりとは、安全でかつ質の高いチームワークを発揮しやすいチームを形成するために必要なスキルの一つです。
チームには次のような特徴があります。
・リーダーと複数のメンバーから成る
・共通の目的を有している
・相互に協力し合う関係にある
・メンバーが各々専門的な技術をもつ
チームづくりに最低限必要な要素は、次の三つです。
① 雰囲気づくり
チームを有効に機能させるためには、チームワークを発揮しやすい雰囲気をつくり出すことが必要です。チームワークの発揮には積極的、自発的に参画する姿勢が必要であり、意見や提案を率直に、自由に述べられるようにすることも雰囲気づくりの重要な目的です。
② リーダーシップとフォロワーシップ
リーダー、メンバーともに、チームのために主体的に役割と責任を果たすことが求められます。
リーダーは作業全般の管理にあたり、全体像を把握し意思決定します。メンバーは一つ一つの作業を確実に処理すること、現状を見落とさないことが重要です。
③ 役割の相互性
リーダーから指示を受けたメンバーは、その業務の実施にあたってリーダーシップを発揮しなければなりません。またリーダーは、状況によってはメンバーが円滑に業務を実施できるようフォロワーシップを発揮し、支援する必要があります。
平常時は協調型のリーダーシップが発揮され、緊急時においては権威型のリーダーシップが発揮されることが望ましいでしょう。
(3)状況認識のスキル
状況、環境を正しく認識することによって、誤った判断や行動を防ぐとともに、 誤作動などを速やかに発見するための技能です。
状況認識を妨げる外的要因としては、次のことが考えられます。
・高圧的態度の上司の下にいる
・全体の作業が見えない
・現場に仲間意識がない
・事細かく定めごとがある
・責任を与えられていると思えない
・絶えず時間のストレスを受けている
・慣れない仕事をさせられる
このような状況認識阻害要因を克服するためのスキルを身につけなければなりません。
① 状況把握のための観察
・人間の行動にはエラーがつきものである
・機械は誤作動、故障がつきものである
・何かを操作したとき、何かが変化したときのモニターの重要性
・先入観を除いた客観的モニターと評価
② エラーと危険の予測
・何かが起こったら最悪な事態も予想する
・自己の経験からエラーの発生を予測する
・警戒心を持ち、希望的観測をしない
③認識の共有
・業務計画の全体像やリーダーの意図をメンバーに伝達する
・現状の把握と将来予想をチーム内で伝え合い、警戒心を同一に保持する
・各メンバーには認識の共有が確保されていることを確認する
事故を防ぐには、一にも二にも情報共有とコミュニケーションが重要です。例えば大勢の人の命を預かる航空機パイロットも、危機的状況の最終局面に至るまで副操縦士や管制官との情報共有が大切です。
また、自分との情報共有として声に出しての確認も有効なのですね。私(担当M)は入力情報の最終確認を小声で読み上げて行うのでうるさくないかと心配でしたが、ちょっとほっとしました。
『ヒューマンファクター』内容紹介まとめ
事故に関する考え方は進歩し、人間一人のミスに責任を負わせるようなことはなくなり、組織に内在する様々な要因が分析されるようになりました。しかし、安全管理において、人的要素を無視することはできません。人間工学に基づいたより精緻なヒューマンファクター解説を前半で行い、後半ではその知識を業務の現場・社会全体で応用するためのより実践的な解説を行っています。研修用教科書として最適です。
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安全に運ぶ!おすすめ3選
・
『新訂 船舶安全学概論』
なぜ、人間はミスをするのでしょう?タイタニック号の沈没は、どんな教訓を残したのでしょうか。海難にあったとき、私たちはどのように対処するべきか?人間工学的側面と社会科学的側面の両面から、海上安全の基礎知識をまとめました。船舶運航を学ぶ人のための教科書です。
・
『運輸安全マネジメント制度の解説』
福知山線脱線事故等の、交通機関における悲惨な事故の多くが、「ヒューマンエラー」を要因としていました。これをきっかけに、運輸事業者が一丸となって安全管理体制を構築・改善し、国がその安全管理体制を評価する制度が始まったのです。この「運輸安全マネジメント制度」をわかりやすく解説した、管理者向けテキストです。
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『航空安全とパイロットの危機管理(改訂増補版) 交通ブックス311』
ハイテク機の時代になり、航空機事故は機材の不具合や規程類の不備よりも人的要素に誘発されることが明らかになりました。元ベテランパイロットが、パイロットをはじめとした乗務員の行っている安全対策と、安全への心構えを解説します。