新幹線開発百年史 東海道新幹線の礎を築いた運転技術者たち


978-4-425-96251-8
著者名:中村信雄 著
ISBN:978-4-425-96251-8
発行年月日:2016/3/24
サイズ/頁数:A5判 330頁
在庫状況:在庫有り
価格¥3,520円(税込)
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東海道新幹線の歴史を在来線の発達から読み解く
2014年10月1日に開業50年を迎えた東海道新幹線。その新幹線の基盤ともいえる日本国有鉄道の百年以上にわたる歴史を解説した。明治時代にさかのぼる新幹線のルーツとそれを支えた運転技術者たちの試行錯誤の日々をお届けする。

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【お詫び】 本文中の写真提供者の名前が間違っておりました。

「誤」
杉本元六

「正」
杉本源六

ご本人並びに関係者の方々には大変ご迷惑をおかけしました。
この場を借りてお詫び申し上げます。
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【はじめに】より

私は物心ついた頃から鉄道に興味を持ち、以来、国鉄の電車運転士になりたいという夢を持ち続けていた。小学校時代は電車気狂いなどと呼ばれ、当時は電車関係の書物を読み漁っていた。また、鉄道に興味を持つ友人もかなり居て、彼らは私とは違い皆、学業の優秀な生徒だった。その多くは理工系に進み、社会に企業に大いに貢献した。
1949年頃、日本一の機関士と言われ、小学校の教科書にも載った、吹田機関区の機関士、名越一男の伝記「驀進」(上田廣 著)という本を読んだ。名越は幼少の頃、毎日、駅構内の黒焼きの柵にもたれかかり、行き交う列車を眺め、列車の先頭の乗る機関士の雄姿に憧れ、機関士を夢見て国鉄に入った。彼は判任官機関士になりながら、昇進の薦めを断り続け、定年まで一機関士として勤め上げた方である。国鉄というと都会では低賃金の代名詞のような存在であったが、国鉄時代、鉄道に魅せられ、運転畑を志し、働いた人々の中には似たような熱い思いを抱いて国鉄に入った人が大勢居た。
私は1958年4月1日品川電車区に就職、池袋電車区・八王子機関区、五日市支区・八王子機関区・田町電車区を経て1962年11月14日、武蔵小金井電車区で電車運転士を拝命、そして開業半年後に新幹線電車運転士の発令を受け、1996年3月まで、国鉄分割民営化の中で三年間、運転士を降ろされガードマンに出された時期を除いて、33年4ケ月憧れ続けた運転士生活を送り、その内31年余を新幹線の運転士として勤め上げることができた。特に、国鉄時代の新幹線東京運転所は、管理職には如何にも学歴不問の[十河派]に選ばれたらしい、官僚臭くないスケールの大きい人格者が居り、そして東京運転所・国労分会にはいつも馥郁たる文化の香りが漂い、最高の人間関係があった。そこには[組合員連絡帳]があり、誰でも読むことができた。また、誰もが当日の出来事を自由に書き、情報を共有することができた。そこに蓄積された多くの仲間が書き込んだ生情報は、新幹線運転現場の貴重な歴史の記録として大きな意味がある。そして、未知の新幹線に皆が如何に上下の区別なく真剣にいろいろなことに対峙したかを如実に語っている。また、モデル線管理区の管理係、加藤潔編纂になる『モデル線略史』に記載された緻密な記録は新幹線の運転関係の未知への挑戦の歴史を詳しく知る上で欠かせない貴重なものである。
昨年で東海道新幹線は開業半世紀を迎えた。その間、脱線、衝突といった運転事故による死者はゼロであり、その記録は日々更新されている。しかしこれは一朝一夕に成し遂げられたものでなく、先人の血と汗と熱意と努力の上に成り立っていることを忘れてはならない。新幹線は国鉄時代に人材を発掘し、良い人間関係の中、未知への事に挑戦し、失敗での落胆や大成功の歓喜の歴史の積み重ねの末に今日がある。新幹線の歴史に触れる前に、先人の熱い心を知ることが必要であろうと思い、過去に見聞きした記憶を紐解きながらその出来事も書くことにした。特に、戦後間もない1948年から刊行された学生時代から国鉄時代を通じ愛読していた月刊誌『電気車の科学』や『鉄道ピクトリアル』、戦前から鉄道図書を刊行していた鉄道図書の源流、交友社刊の後発の月刊誌『電車』や『鉄道ファン』に掲載されていた多くの歴史的に意義ある記事をはじめ、『日本国有鉄道百年史』に記録されている貴重な記録を多くの記述に参考にさせていただいた。思えば私は、本当に良い時代に多くの人たちとの出会いに恵まれて国鉄の栄光の運転畑で働くことができた。特に1896年生れで、大正初期、黎明期の国鉄に就職、浜松機関区で機関士を務め、二俣線の開業に大きく貢献した杉山久吉、大正時代国鉄に就職、1930年10月11日運転を開始した、超特急「燕」の機関士であった、沼津機関区の猪原平次郎、杉本源六、一杉甚五郎の各氏や、薩摩線の人吉機関区の久保田政吉機関士、石北本線の遠軽機関区の遠藤義雄、藤井清民、大辻幸一機関士の方々をはじめ、就職以来、職場でご一緒した多くの方々から運転職場の貴重な大圏や歴史の変遷の話をたくさん伺うことができた。千人の機関士(運転士)には、先のそれぞれの貴重な大圏、珍談奇談の歴史、物語があり、勿論それを全部記録に残すことは不可能である。多くの大先輩から聞いた、今は時効となったと思われるお話は貴重な歴史の一ページである。また私自身実際に見聞きし、現場で体験した事も明らかにし、教訓としても是非とも歴史として残しておきたいと思う。それは多くの後輩の願いであった。そして、過去、等しく経済的には貧しくとも、心豊かな良き時代に思いは馳せることにも意味があると思う。昨今は人間関係が希薄になり、歴史が伝承される機会も少なくなった。「過去に目を閉ざすものは、未来に対して盲目になる」は、ドイツの元大統領ワイツゼッカーの言葉であるが、それは多くの事に当てはまるだろう。
文中、一部に参考させていただいた書物、著者名を記したが、さらに巻末に参考にさせていただいた多くの文献に敬意をこめて掲載させていただく。また、文中敬称は略したので、ご了承いただきたい。

平成28年3月
中村信雄

【目次】

第1章 新幹線前史ー在来線の発展ー  1.1 在来線のはじまり
  1.1.1 運転ことはじめ
  1.1.2 定時運転の確立
  1.1.3 関東大震災
  1.1.4 黎明期の名機関士 杉山久吉
  1.1.5 超特急・燕
  1.1.6 電気機関車の輸入と使用の拡大
  1.1.7 Buchli(ブッフリ)式駆動装置
 1.2 戦前・戦後の国鉄
  1.2.1 石炭事情
  1.2.2 新製EF58の運転室と機関室の例
  1.2.3 特急列車復活に向けて試運転
  1.2.4 RTO・白帯車の廃止
  1.2.5 国鉄部内の戦後処理
  1.2.6 鉄道信号
  1.2.7 機関車労働組合の分裂
  1.2.8 湘南電車
  1.2.9 モユニ81のノーブレーキ
  1.2.10 桜木町事故・電車火災
  1.2.11 特急のスピードアップに向けて
  1.2.12 十河信二国鉄総裁になる
  1.2.13 気道車時代の幕開け
  1.2.14 新性能電車の誕生
 1.3 運転記録
  1.3.1 鉄道趣味から本職へ
  1.3.2 憧れの国鉄に就職
  1.3.3 新生「あさかぜ」・ビジネス特急「こだま」誕生
  1.3.4 ちよだ号
  1.3.5 品川電車区から池袋電車区・八王子機関区 五日市支区へ
  1.3.6 八王子機関区の機関車
  1.3.7 戦中戦後の八高線・中央線の大事故
  1.3.8 八王子機関区の名士?
  1.3.9 機関士と機関助士の関係
 1.4 機関車から電車へ
  1.4.1 電車の時代
  1.4.2 電車運転助士としてのスタート
  1.4.3 電車運転助士として初乗務で大きな踏切事故を目の当たりに見る
  1.4.4 飛び込み自殺に遭遇
  1.4.5 運転士と信号掛の信号に対する意識の差
  1.4.6 逼迫する国鉄輸送と電車運転技術
  1.4.7 伊東支区と伊豆急
  1.4.8 隔時法の廃止
  1.4.9 電車運転士科へ入学
  1.4.10 電車運転士科を卒業、武蔵小金井電車区へ配属
  1.4.11 電車運転士を拝命
  1.4.12 自動ブレーキ
  1.4.13 荷物電車と配給電車
  1.4.14 苛酷な国電の運転士勤務
  1.4.15 飛び込み事故・オーバーラン・車掌の欠乗・電力不足
 1.5 田町電車区
  1.5.1 憧れの田町電車区 電車運転士の発令を受ける
  1.5.2 伊東線
  1.5.3 東海道本線
  1.5.4 中長距離電車急行
  1.5.5 横須賀線
  1.5.6 大船駅のインシデント・鶴見事故・線路立ち入り
  1.5.7 新幹線計画に向けての高速度試験
  1.5.8 サンパチ(38)豪雪

第2章 東海道新幹線の歴史  2.1 新幹線
  2.1.1 明治時代の日本の高速鉄道構想
  2.1.2 戦後の高速度鉄道構想
  2.1.3 商用周波数を使った交流電化の先駆者はドイツとフランス
  2.1.4 電車列車か客車列車か 広軌か 狭軌か
 2.2 課題
  2.2.1 新幹線の線路規格
  2.2.2 電化方式(なぜ新幹線は交流方式なのか)
  2.2.3 周波数の問題(50Hz/60Hz問題は60Hzで統一)
  2.2.4 運転保安・ATC
  2.2.5 ブレーキ
  2.2.6 電気機器
  2.2.7 車両構造・耳ツン対策
  2.2.8 台車・駆動装置
  2.2.9 新幹線の運転・検修の指導者を養成した「小金井大学」
 2.3 試運転
  2.3.1 モデル線の建設
  2.3.2 モデル線管理区
  2.3.3 試作車両の落成
  2.3.4 モデル線試運転
  2.3.5 中央鉄道学園 小田原分所
  2.3.6 高速度試運転に向けて
  2.3.7 初めて200km/hの達成
  2.3.8 電車による最高速度記録への挑戦
  2.3.9 高松宮ご夫婦の試乗と高まる世間の関心
 2.4 本線開通に向けて
  2.4.1 救援機911の導入決定
  2.4.2 試運転中、鴨宮基地での車両転動
  2.4.3 モデル線での人身事故
  2.4.4 東海道新幹線支社発足、大阪方で量産車の試運転開始
  2.4.5 B編成の脱線と列車妨害
  2.4.6 鴨宮を引き払い、建設中の東京運転所へ
  2.4.7 東京〜新大阪の通し試運転開始
  2.4.8 労働組合(国幹労)問題

第3章 ヨーロッパの高速鉄道  3.1 ヨーロッパの鉄道高速化に貢献した名機DBの103電気機関車
 3.2 フランスの新幹線TGV
  3.2.1 Lyriaの運行ネット
 3.3 ドイツの新幹線ICE
  3.3.1 試作車ICE-V
  3.3.2 ICE-1
  3.3.3 ICE-2
  3.3.4 ICE-3
  3.3.5 ICE-T
  3.3.6 ICE-S
  3.3.7 ICEの大事故
 3.4 ヨーロッパの新幹線
  3.4.1 イタリアの新幹線(ディレッシマ)
  3.4.2 スウェーデンの新幹線X2000
  3.4.3 ポルトガルの新幹線
  3.4.4 ヨーロッパの鉄道に魅せられる

コラム  C57の日々
 省線電車の窮状をどうして打開するか
 都内人口と輸送量
 最近二、三年に実施すべき事項
 悪夢
 二十年前の八月十五日
 国鉄白書
 善光寺通過事故
 EF13
 大塚滋の車内アナウンス
 黎明期の東京運転所



この書籍の解説

2022年10月14日は、日本に鉄道が走り始めてから150年の節目の日です。日本の鉄道の特徴といって創造するものは何でしょう?正確なダイヤでしょうか?都心部の通勤ラッシュ?それとも新幹線や特急?私(担当M)は、鉄道の中でも特に新幹線が大好きです。長い間安全運航を維持してきた新幹線ですが、走り出すまでには多くの困難がありました。その源流は明治時代にもさかのぼることができ、脈々と受け継がれてきた日本の鉄道技術の粋を集めた存在が、新幹線だったのです。
また、その開発の過程には、各所との調整に奔走する上層部と開発責任者、現場で開発と検証に携わる機械技術者、試運転を繰り返す運転士たちといった、様々な人々の存在がありました。十河信二や島安二郎の逸話は書籍やドラマ等でも描かれていますので、覚えのある方も多いでしょう。
今回ご紹介する『新幹線開発百年史』は、新幹線に関わる人々の中で、運転技術者たちにスポットを当てます。新幹線運転士として現役時代を過ごした著者が、東海道新幹線につながる在来線の発展、東海道新幹線開業までの経緯と試運転の日々を、当時の記録をもとに、鉄道人生を交えながら生き生きと語ります。コラムに表れる運転士たちの肉声が、記録により精彩を添えてくれるでしょう。終章では、ヨーロッパの高速鉄道についても紹介しています。
鉄道の歴史にとって大きな一歩に至るまでは、多くの人々の努力がありました。その中を生きた鉄道人の目から見た、新幹線開業秘話をご覧ください。

この記事の著者

スタッフM:読書が好きなことはもちろん、読んだ本を要約することも趣味の一つ。趣味が講じて、コラムの担当に。

『新幹線開発百年史 東海道新幹線の礎を築いた運転技術者たち』はこんな方におすすめ!

  • 鉄道ファン
  • 新幹線が好きな人
  • 鉄道史に興味のある方

『新幹線開発百年史 東海道新幹線の礎を築いた運転技術者たち』から抜粋して3つご紹介

『新幹線開発百年史』からいくつか抜粋してご紹介します。東海道新幹線のルーツは、明治時代にさかのぼることができます。運転技術者たちの目を通して、新幹線前史、東海道新幹線開業までの経緯を描き、最後に海外の高速鉄道との比較を行いました。

新生「あさかぜ」・ビジネス特急「こだま」の誕生

1958年10月、特急「あさかぜ」の客車は20系に置き換えられました。それに先立って、1958年9月4日、品川~平塚で試運転を行っています。編成には個室と二人部屋のナロネ20を含み、トイレは洋式でした。

また、「こだま」型のモハ20系(1959年、151系に改称)も完成し、9月17日に宮原操車場から西明石で、東京方面では9月23日に品川~平塚の貨物線でそれぞれ試運転が行われました。この東京方の試運転に、著者も乗車しています。

ビジネス特急の愛称は一般公募され、6月末に締め切られていました。応募は92864通にも及びましたが、多数決ではなく、374通送られてきた「こだま」に決定しました。シンボルマークの応募は5537通あり、その中から羽根をデザインしたものが選ばれ、ボンネットにつけられました。

このとき総指揮にあたったのが、京大出の本社採用という超エリートでありながら運転士を経験した異例の経歴を持つ、大塚滋でした。現場職員の大きな信頼を得て、のちに大塚は新幹線の運転部門のトップとして活躍します。

10月1日のダイヤ改正を迎え、「あさかぜ」が走り出しました。「こだま」も同時に運転開始の予定でしたが、準備不足のため運行開始は1ヶ月遅れとなりました。
当時機関車中心だった特急を電車化することは物議をかもし、失敗は絶対に許されませんでした。電車の完成と軌道の改良も9月中で、試運転が十分に行われないうちに走り出すのは危険でした。特に大きな懸念は、関ヶ原の下り勾配です。テストの結果、ブレーキのテコ比を変えることで対応しました。ダイヤ改正直後から、「こだま」の車両は東京~大阪での試運転を開始しました。

1958年11月1日、特急「こだま」が走り始めました。8両編成で走り始めた「こだま」は好評に応えて、翌年の12月13日には12両編成となりました。また、1958年10月のダイヤ改正では、東北本線に「はつかり」が登場しました。「はつかり」は本来10月1日運転開始でしたが。常磐線が台風22号の被害を受けた影響で、10月10日の運転開始となりました。

「こだま」の151系に始まるボンネット型特急列車は、画期的なデザインでした。このタイプは「こだま形」と呼ばれ、交直流電車の485系グループなどに受け継がれていきます。羽根のマークと赤いラインが印象的な車両ですね。鉄道博物館等に仲間が保存されていることが多いので、今も見ることができます(担当Mは横川軽井沢間を走った489系が大好きです)。ちなみにこのボンネットの中には、コンプレッサーなどが入っていますよ。

250km/h達成

1962年10月21日に、170km/hまでの速度向上試験が行われました。同月27日には、190km/hをクリアしています。10月31日、いよいよ200km/hの速度に挑むこととなります。当日はNHKが複数のヘリコプターや中継車、150名のスタッフを動員し、車内に乗り込んだ十河総裁とスタジオを結んで生中継する1時間番組を放送しました。この試験運転において、1000形電車は第一生沢トンネル東京口、モデル線の62km地点で見事200km/hに到達しました。

その後、11月11~13日にA編成、11月20~23日にB編成を用いて200km/h走行時の総合性能を調査し、12月2日にはB編成の空調排気口を塞いだ状態で走行し、車内気圧の変動を測定しました。

12月12日には、中央鉄道学園小田原分所の第一回特別新幹線検修高等科と第一回特別新幹線電車運転士科の学科が終了し、実務訓練に入りました。
12月19~22日、B編成でATC9000型の総合動作試験と列車無線試験を行い、12月26~28日にはA編成を用いて運転速度を210km/hに上げた上でATC9001の総合試験を実施しました。こうしたテストは、1回生の実務訓練も兼ねていました。

ATC は未完成でしたが、最高速度は 210km/hで頭打ち(ATC 信号によるブレーキが作動)するようになっていました。
年が明けても速度向上試験や気圧変動試験をはじめとした試験走行は続き、安定して200km/hを出せるようになっていきます。1月30日からはDT9001、DT9002、DT9004台車の試験、パンタグラフの試験も始まりました。

モデル線ではその後も様々な試験走行を行いましたが、3月13日にはA編成とB編成が吹きだまりに突っ込み、先頭スカート(排障器)が破損する事故が起きています。当時の排障器は体裁を整える程度の簡易なものでしたが、この事故で弱点が判明したため、強固な排障器が採用されることになりました。新たに設計された排障装置には、模型を製作し、エアガンを使い砲丸を当ててテストをしました。その結果、重量との兼ね合いも考慮し、16mm鋼板を6枚重ねたものが採用されました。

前面ガラスの強度については、飛行機のガラステストに使用する空気砲を使用し、鳥に見立てた物体を250km/h相当の速度で衝突させる実験を行いました。その結果、6mm厚の強化ガラスを内側、5mm厚の普通ガラスを外側にした合わせガラスを採用しました。

3月19日からは250km/hを目指した速度向上試験が始まり、3月30日、B編成を使って最終の高速度運転試験が行われました。鴨宮をスタートして一気に加速し、モデル線の51.2kmで256km/hに到達し、世界記録を樹立したのです。
この記録は大ニュースとなり、桐村運転士は当日夜のNHKニュースに生出演し、アナウンサーと一問一答を行いました。

試験走行に用いられた1000形のA編成とB編成は、その後走り出した0系とは微妙に顔つきが違います。その後2編成とも別用途に改造され、B編成は「ドクターイエロー」の先祖ともいえる電気検測車(922形T1編成)になりました。残念ながら両編成とも保存はされませんでしたが、A、B両編成で試験を繰り返した結果が、その後誕生した0系量産先行車(C編成と呼ばれました)に活かされたのです。

東京~新大阪通し試運転開始

7月25日、東京と新大阪からそれぞれ午前9時20分に試運転列車が発車しました。この試運転電車が、初めて東京新大阪間の通し運転を行ったのです。
当日の朝日新聞夕刊には「乗り心地は上々 沿線に見物人鈴なり」と書かれています。この列車は ATCを使用せず、10時間近くかけて新大阪に到着しました。当日は更に1本の試運転列車が運転されました。試運転列車は途中で停電に遭遇するなどのトラブルの中、保安装置もない中で2列車運行しました。

これを機に、東京~新大阪往復の線路見学を兼ねて本格的な試運転が始まります。一組4〜5人で乗務しますが、ATC は使えません。また、高速運転ができるのは旧モデル線区間の一部と米原~鳥飼間に限られていました。停電や空調の故障も頻発し、運転士たちは苦労させられたようです。試運転中は一般の試乗も行われましたが、試乗客を乗せているときにも同様のトラブルが頻繁に起こりました。

初期故障に備えて、運転士の他には検査掛が添乗しましたが、検査掛は車両の構造にも詳しく、この添乗検査の制度のお陰で運転士は多くのことを教わることができました。
8月15日には運転指令用の列車無線が使用開始になり、直通運転の準備は着々と整っていきます。8月18日、当初超特急の通過予定であった京都停車が決定し、「ひかり」 4時間、「こだま」 5時間のダイヤが決定しました。

車両も30編成が揃いました。編成の頭にはメーカーのアルファベットの頭文字を冠しましたが、Kの付くメーカーが3社あったため、Kは汽車会社とし、川崎車両は川(River)の R、近畿車両は近い(Short)のSを使うこととしました。

地盤の悪い場所の速度向上には、運転士のテクニック向上とともに、保線の人々の努力がありました。この試行錯誤は開業後も続きました。
8月24日、いよいよ全線公式試運転が始まりました。 ATC を使い、臨試851A、東京〜新大阪間5時間の公式試運転が行われました。総裁・十河信二や元国鉄技師長・島秀雄をはじめ、石田禮助、国鉄総裁・加藤一郎、元国鉄新幹線支社長・石原米彦常務理事も乗車していました。他には一般乗客に見立てた中央鉄道学園の生徒も乗っていました。車掌も模擬検札を行い、特に3人掛け座席の扱いを研究しました。

この試運転は単なる走行試運転ではなく、技術課題も背負っていました。
①車輪の横圧、②台車の強度および輪軸負荷、③振動加速度各機器の温度上昇や機器冷却送風風量、④一般車両性能、⑤ ATC の総合動作、⑥ 乗り心地等、多岐にわたって試験が行われました。

8月28日からは営業ダイヤで練習運転が行われましたが、徐行個所も多く電力事情や訓練運転期間も十分ではありませんでした。当初の計画では10月1日開業、半年後の4月には3時間・4時間運転が可能と予測していましたが、実際3時間・4時間運転が実現するまでには、開業してから13ヶ月を要しました。
開業を翌日に控えた9月30日、招待者試乗会が行われました。新幹線運転取扱心得が総裁達522号で正式に制定されたのは開業1日前の9月30日でした。

この項目は長めで、試運転のシーンには運転士の目から見た線路や地盤の「運転感覚」が傾斜や速度といった数値を添えて書かれています。また、十河氏の人柄がしのばれるエピソードも語られていますので、是非本書をご参照ください。時に理不尽にも直面しながら現場で奮闘する運転士たちの姿が見えてきます。

『新幹線開発百年史 東海道新幹線の礎を築いた運転技術者たち』内容紹介まとめ

スピード開業を成し遂げた東海道新幹線。しかしその基礎は在来線発展の中で築かれていました。在来線における技術開発、東海道新幹線開業までの試行錯誤を、運転士たちの視点からコラム等も交えて解説します。

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新幹線の歴史!おすすめ3選

『弾丸列車計画ー東海道新幹線につなぐ革新の構想と技術ー 交通ブックス122』
東海道新幹線のベースには、戦前の「弾丸列車計画」が存在します。戦況の悪化で実現しなかったこの計画において、高速鉄道の基本となる規格や仕様がすでに定められていたのです。集められた貴重な資料をもとに、計画の全体像を要約しました。

『東海道新幹線運転室の安全管理 200のトラブル事例との対峙』
新幹線の安全神話の裏には、様々な「ヒヤリ・ハット」がありました。運転士たちの業務日誌をもとに、事故につながりかねない大きなトラブルから、なんだか微笑ましいハプニングまで、運転士たちの無事故への努力を紹介します。

『新幹線実現をめざした技術開発』
『新幹線実現をめざした技術開発』
新幹線開業までを描いた書籍は色々ありますが、本書は技術開発に焦点を当てました。旧国鉄時代の記録等を調査し、技術者たちの努力と創意工夫を明らかにします。実験装置まで自作しながら、世界に誇る高速鉄道技術を生み出した技術者たちの足跡が、ディテールに宿ります。


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カテゴリー:鉄道 タグ:新幹線 歴史 鉄道 
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