日本南極探検隊長 白瀬矗 極地研ライブラリー


978-4-425-57031-7
著者名:井上正鉄 著
ISBN:978-4-425-57031-7
発行年月日:2012/3/23
サイズ/頁数:四六判 188頁
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価格¥2,420円(税込)
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鎖国の閉塞した時代醒めやまない明治初頭。齢11の少年が未知の世界への探検を志した。その夢を50歳でかなえた。しかも世界的な探検である。この探検の成功が日本南極地域観測隊の礎となった。
本書は白瀬の生い立ちから南極探検を成し遂げるまで、そしてその探検の成果、今に続く白瀬の功績をまとめています。

【はじめに】より
 今から100年前の明治43(1910)年11月28日、大隈重信南極探検後援会長をはじめ、大勢の民衆の手で盛大な送別式が挙行され、一隻の小さな機帆船が東京芝浦埠頭を離れた。船の名前は「開南丸」、白瀬矗(しらせ・のぶ)を隊長とする「日本南極探検隊」の隊員たちを乗せていた。目的地は南極大陸。アジアの国々の中では初めての壮挙であった。
 15〜17世紀の大航海時代に活躍したクリストファー・コロンブス(アメリカ大陸の発見者)やバスコ・ダ・ガマ(欧州からアフリカ南岸を経てインドに至る航路の開拓者)、そして産業革命以来の欧米列強による南米、アジア、アフリカ諸国に植民地化の嵐が吹き荒れる中にあって、大隈重信侯をして「未曾有の創事業」と言わしめた白瀬矗の「南極探検」。雄大な山容を誇る独立峰、鳥海山が聳えているとは言え、東北地方秋田の片隅にポツンと静かに佇む小さな漁村「金浦」の寺に生を受けた少年が、いかにして道の世界への探検を志し、実際にその夢を叶える事ができたのか、筆者は非常に興味を覚えた。
 本書では特に第4章で、「出会い、白瀬矗を世界的な探検へと導き、支えた人々」と題して、白瀬矗の父親である白瀬知道師、近所に住まう塾の先生で医者の佐々木節斎先生、貴重な助言と援助を惜しまなかった児玉源太郎将軍を始め、多くの先達が白瀬矗の「偉大な功績」に関与してきた事を述べる。言い換えれば白瀬矗の、未知の世界に挑戦する姿勢、彼の資質・素養を見抜き、夢の実現に向けて、絶えず助言・援助を続けた数多の時代の傑物達。彼らの意とするところを真摯に受けとめ、志の成就に向かって努力した白瀬矗の前向きな姿勢を知っていただければ幸いである。
 さらに、白瀬探検隊がオーストラリアのシドニーでの越冬を終え、南極に向け再出発を図る時、白瀬矗は大隈重信後援会長の助言もあり、探検の主目的を南極点踏破から学術探検に変更することを決意した。実際、大和雪原の探査とともに、エドワード七世ランドなどの学術調査を実施している。そして、白瀬探検隊の総括記録ともいうべき「南極記」では、附録の第1章に20ページ程を割いて「南極圏採集標品調査報告」がまとめられている。さらに、第2章では「気象観測表」(20ページ)、次いで「ペングイン鳥の胃中より出でし岩石破片研究」(12ページ)、「樺太犬及橇の研究」(11ページ)などが記されている。
 また、探検隊に学術部長を置くとともに副隊長格の立場を与えている。これは当ショアから学術調査を重視していた証でもある。また、白瀬矗は晩年、政府に対し「極地研究所」の設立などを請願していた。白瀬矗については、アムンセンやスコットと同時期に南極点踏査に果敢に挑んだことが強調されているが、実は、未知なる南極の学術調査にも傾注した「我が国の南極における学術調査の原点」とも言える活動をしたのである。本書から、こうした白瀬日本南極探検隊の活動も知っていただければ望外の喜びである。
 2009年秋、第51次日本南極地域観測隊が第4代目の南極観測船の最初の航海で南極に向けて出発した。その新たな南極観測の歴史を刻むことになる観測船は、第3代目に続き「しらせ」と命名された。観測開始から50有余年、日本の南極観測は、オーロラの立体観測、オゾンホールの発見、隕石の多量採集、氷床深層コア掘削の成功など、世界に誇る成果を挙げてきている。しかし、我が国の南極観測の幕開けは、国際的な逆風を凌いでのものであった。国際地球観測年(IGY:1957?1958年)を契機にした「日本の南極観測参加」の意思表明に対しては当初世界大戦終了後間もないこともあり、「日本にはその資格はない」などと、参加に反対する意見が多かったのである。これに対して、日本側は「白瀬日本南極探検隊」の実績を挙げて『日本には南極観測に参加する資格は十分に有る』と主張し、ようやくその参加が認められた。白瀬隊の成果、実績が、日本の南極観測参加実現に大きく貢献していることは、つとに知られたことである。成功裏に終わったIGYにおける国際的な観測協力体制を維持、発展させるために、1959年に「南極条約」が採択された。日本は、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、旧ソビエト連邦などとともに12の原署名国として、南極の国際管理の責務を果たしている。

【目次】
第1章 プロローグ
 1-1 幼い頃から夢に描いた北極探検、それを南極探検に切り替える
 1-2 大和雪原(やまと・ゆきはら)に立つ白瀬隊長と4隊員
 コラム1:ブリザード時での野外行動の体験談

第2章 白瀬矗探検の足跡
 2-1 幼年時代、節斎先生の教え
 2-2 青年時代、児玉将軍の知遇を得る、やすと結婚
 2-3 千島探検
 2-4 極地探検、世界の動向(1897?1909年)。矗、南極探検を決意
 コラム2:南極・北極の経験豊かな、アムンセンとスコット
 2-5 南極探検の準備
 2-6 開南丸の改装
 2-7 開南丸の大航海
 2-8 氷海から引き返す、シドニーで再起をはかる。再び南極へ
 2-9 白瀬隊、南極大陸ホエールズ湾に到着
      突進隊、南極大陸内部に向けて出発、走行9日で南進を終え、付近一帯を「大和雪原」と命名。
      沿岸探検支隊ホエールズ湾の東方、エドワード七世ランド(州)の学術調査
      開南丸によるエドワード七世ランドの東方沿岸探検
 2-10 同じ時期に南極点を目指した白瀬矗(49歳)、ロアルド・アムンセン(38歳)、
      そしてファルコン・スコット(42歳)
 コラム3:南極点初到達100年目の子孫たち
 2-11 「開南丸」帰国、盛大な出迎えを受ける
 2-12 晩年の白瀬、極地への飽くなき熱情、最期まで啓蒙活動を続ける

第3章 白瀬日本南極探検隊の学術報告
 3-1 動植物
 3-2 地質及び岩石
 3-3 気象観測表
 3-4 コウテイペンギンの胃の中から採取した岩石片の研究

第4章 出会い、白瀬矗を世界的な探検へと導き、支えた人々
 4-1 佐々木節斎
 4?2 白瀬知道
 4?3 児玉源太郎
 4-4 乃木希典
 4-5 南極探検後援会
      用船問題に際して
      探検隊出発に向けて義援金を募る
      開南丸出航後も募金活動を続ける
 4-6 日本南極探検隊員
      白瀬日本南極探検隊員と、その役割
      都道府県ごとの探検隊員の出身地
 4-7 東京天文台
 4-8 やす夫人

第5章 白瀬日本南極探検隊の残したもの
 5-1 外国からの反応
 5-2 日本南極地域観測隊が東南極の一角、オングル島に昭和基地を設置
 5-3 「白瀬あるいは白瀬隊関連」の名辞が冠されている名称
      白瀬氷河
      奥白瀬平
      Shirase Coast (白瀬海岸)、及び「開南湾」・「大隈湾」、(「大和雪原」)
      南極観測船(砕氷艦)「しらせ」

第6章 エピローグ
 6-1 稀代の傑物、85歳の生涯を閉じる
 6-2 白瀬矗或いは白瀬日本南極探検隊関連記念碑
      「南極探検記念碑」
      「日本南極探検隊長白瀬矗君偉功碑」
コラム4: 白瀬南極探検隊記念館
コラム5: 白瀬矗とデイビッド教授

【極地研ライブラリーについて】
 「極地研」は、「国立極地研究所」の略称で、極地に関する科学の総合研究と極地観測の推進を目的に1973年に設置されて以来、大学共同利用機関として、また南極観測事業の中核的実施機関としての役割を担ってきました。
 「極地研ライブラリー」は、理解が進んだ極地の自然について、その観測や研究の成果を、第一線の研究者が科学的に分かりやすく解説するとともに、極地での調査や活動、さらにはその歴史を紹介するシリーズです。


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