鉄道連絡船のその後


978-4-425-92481-3
著者名:古川達郎 著
ISBN:978-4-425-92481-3
発行年月日:2002/1/28
サイズ/頁数:A5判 126頁
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【まえがき】より
昭和63年(1988)、北の津軽海峡に「青函トンネル」が、そして南の備讃瀬戸に「瀬戸大橋」が開通し、鉄道連絡の「青函航路」と「宇高航路」が姿を消した。
『鉄道連絡船』は、もともと、いますぐ橋をかけたり、トンネルをほることのできない川や海などで、“動く橋”として両岸の鉄道を連絡する船であるから、橋などができてしまえば消え去るのが運命である。
ただ、前記両航路がこれまでと運命を異にするのは、自らが起こした「事件」が、当時の社会情勢では夢とさえ思われていたトンネルと橋の実現に向けて世論を大きく一変させたことである。事件とは、昭和29年(1954)の「洞爺丸事件」であり、翌30年(1955)の「紫雲丸事件」であった。このことは、連絡船にとって“動く橋失格”を宣告されたに等しく、さらには、これまでの近代日本の発展の一翼を担い、ときには大きな犠牲を強いられながら、営々として築き上げた栄光のすべてを否定されかねない痛恨事であった。
この汚名を返上するためには、あらゆる事故に即応できる安全な船を造り、橋などが完成するまでの残された時間のなかで、これまで以上に“動く橋”としての使命を全うすること、これしかなかった。しかも、両航路がなくなると、両岸の鉄道をダイヤで結ぶ『鉄道連絡船』は日本から姿を消す。まさに最後のチャンスであった。もちろん「安全第一」が絶対要件であるが、欠航を少なくし、客船であれば、誰もが乗ってみたいと思うような魅力のある船をめざすことも欠かせない要件であった。「洞爺丸事件」直後から始まった檜山丸?型の建造(昭30)を皮切りに、十和田丸?(昭30)、讃岐丸?(昭36)と試行錯誤をくりかえし、10年の歳月を経てようやく世に問うたのが青函航路の「津軽丸?型客載車両渡船」であり、宇高航路の「伊予丸型客載車両渡船」であった。
この両型船で昭和63年(1988)の終航を迎えたが、幸い事故もなく、日本全国のおおぜいの人々から惜しまれながらトンネルと橋にバトンタッチができたことは、「鉄道連絡船」にとって本当に『ヨカッタ』の一言に尽きる。
両型船の誕生までの経緯は、前著『鉄道連絡船 100年の航跡』(成山堂書店、昭63)で紹介したので、本書はその続編として、第1部で、終航時の模様と終航後の各船の消息について記述した。また、第2部では、書き残しておきたいこと、とくに連絡船の定時運航やその後の運航時間の短縮に欠くことのできない「補助汽船」の一端にも触れている。
付表に、「国鉄補助汽船主要目一覧表」と「国鉄補助汽船の配属期間」のほかに「鉄道連絡船主要文献目録」などを添付した。鉄道連絡船や補助汽船を研究される方の参考になれば幸いである。


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カテゴリー:鉄道 
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