コラム

2014年8月27日  
著者

ダイビング界のレジェンド・須賀次郎が語る「目標は80歳で80m」

ダイビング界のレジェンド・須賀次郎が語る「目標は80歳で80m」
日本のダイビングを切り開き、今なお現役ダイバーの須賀次郎氏は、ダイビング界の「レジェンド」。次の目標は前人未到の80 歳80m 潜水である。「休むのは死ぬ時」と言い切るそのバイタリティは、どのように培われてきたのか。娘の須賀潮美氏が今まで知らなかった父の一面に迫る。

何もないからおもしろかった、ダイビング黎明期は冒険時代

ー本書は次郎さんが1950年代にダイビングを始め、今も続く長い潜水人生の中で、1980年代の初頭までの体験が綴られています。日本のダイビングの黎明期は、どんな時代だったのでしょうか。
須賀次郎(以下、須賀):
僕は1954年にダイビングを始めました。本書に詳しく書きましたが、日本には第二次世界大戦後にスクーバダイビング、当時はアクアラングと呼ばれていましたが、アメリカ人の紹介で入ってきました。そのルートはいくつかありましたが、とにかく、もののない時代にこれまでになかったことをするわけですから、その時代を振り返るとすごくおもしろいんです。
たとえば、今はダイビングをしたいと思えば、ダイビング器材はすべて既製品がありますし、お金を払えばマニュアルに沿ってインストラクターが教えてくれます。当時はそんなものはありません。アメリカからダイビングの本を取り寄せて独学で覚えた人や、誰かが潜るのを見よう見まねでやってみたりした人もいます。
ダイビング器材は輸入品やいくつかの国産品もありましたが、驚くほど高価です。だから、自分で作った人も少なくありません。黎明期は自分たちで道を切り開いてダイビングをしていた時代です。そんな状況ですから、当時のダイビングは1回1回が冒険のつもりだったかもしれません。

ー半世紀を超えるダイビングでは、いろんなことがあったと思います。その中でももっとも印象的な出来事はなんでしょう。
須賀:
誰にとってもそうかもしれませんが、僕もいちばんと言われれば、生まれて初めてタンクを背負ってダイビングをした時です。大学2年生の時に、先輩2人と奄美大島に探検旅行に行って、当時はタンクに空気を充填するのも大変な時代でしたから、1本のタンクを先輩が使って、僕のためにわずかに空気を残してくれたのを吸ったのが最初の経験です。
その後も、100m潜水に挑戦したり、流氷の下に潜ったり、テレビ撮影では娘といっしょに潜ったり、その都度チャレンジで冒険でしたから、印象には残っていますが、すべて2番目に印象深いことですね。もっとも気持ちがアドベンチャーで印象深いのは、最初のダイビングです。

ー本書にはたくさんのダイバーが登場します。その中でとくに影響を受けたのは誰でしょう。
須賀:
僕にはダイビングを通じて出会い、生涯の親友と思った人は数え切れないのですが、とくにと言われれば2人います。1人は後藤道夫さんです。彼と初めて会ったのは大学2年生の時。会ったというより僕が一方的に見かけたんですが、1955年、東京水産大学に入って素潜りと魚突きを始めた頃、葉山の海で僕と同じくらいの年齢の若者がアクアラングで潜るのを見て衝撃を受けました。それが後藤さんでした。以後50年以上、後藤さんも僕も潜水を生業として生きてきたので、つきあいも50年以上になりました。
もう1人は、大学の同級生の原田進です。学生時代のバディは原田で、どこに行くにも何をするにもバディでした。卒業後、彼は真珠会社に就職して、西と東に離れてしまいましたが、原田が出張で東京に来るたびに、必ず会っていました。残念ながら後藤さんも原田も鬼籍に入り、もう会うことはできませんが、何もわからない20代の初めにいっしょに潜水をして、生涯つきあえたのは幸せだったと思います。

ーダイビングの黎明期として、50年代~80年代までを取り上げていますが、80年代を区切りとしたのはなぜでしょうか。
須賀:
振り返ってみて「ダイビングが変わったな」と思うのが80年なんです。それ以前は、海に潜ることは冒険と思われていましたから、ダイビングをする人も危険なことをするんだという覚悟がありました。それが80年代に入ると、水面で浮き袋のように使うことができるBC(浮力調整装置)も登場し、残圧計もオクトパスも標準装備になりました。これで泳力がなくてもダイビングできるようになり、街中にはダイビングショップができ、指導団体のマニュアルがあり、インストラクターが指導してくれます。ダイビングは一部の特殊な人が夢と冒険を追った時代から、ビジネスとしての指導が確立して、誰もが気軽に楽しむものに変
わった。それが80年代で、僕は一つの時代の区切りとしました。

冒険から気軽に楽しむ時代へ、そこに潜む危険とは

ー80年代以降、ダイビングの何が変わったのでしょうか
須賀:
ダイビングは、97%は安全だけど、3%のリスクがあると思っています。100人で3人死ぬということではありません。1回の潜水で、何かが起こる可能性が3%、そのくらいのリスクがあることを自覚して、自分の責任で安全管理する。トレーニングをしたり、健康管理をしたり、いかに安全性を高めるかを考えなければいけないのです。
ところが80年以降は、リスクがあることを考えないで、インストラクター任せ、ガイドダイバー任せの他力本願の人が増えました。そこが変わったことでしょうか。インストラクターもビジネスですから、安全を強調し、観光、グルメ、お酒とセットにしなければお客は来ません。100%安全ですとセールスする人もいるでしょう。僕も仕事の一つとして、ダイバーの指導にかかわりましたが他力本願の受講生の事故の可能性は本当に恐怖でした。ただ最近は危険を自覚して、努力準備する人が増えてきました。とてもいいことです。

ー50年以上、時代の変遷、ダイビングの変遷を見続けてきた次郎さんにとって、今のダイバーはどう映るのでしょうか。
須賀:
日本では毎年およそ8万人ずつダイバーが誕生していると言われています。女性や中高年も多く見られるようになりました。それは悪いことではありません。ただ、大半が気軽に始める人ですから、3年以内にはやめてしまう人が多いのです。それでも、今も黎明期と同じように夢と冒険を追ってダイビングしている人たちもいます。ただ、その質は変わっていて、多様化しています。
僕が28歳の時に死ぬ思いで潜った90mに、岡本美鈴さんというフリーダイバーが素潜りで到達してしまいました。1963年に前人未到だった水深100mに、アマチュアダイバーも潜るようになりました。ただし潜るためにはテクニカルダイビングになり、リブリーザーのような複雑な器材や、タンクを何本も装着してガスを使い分けたりしなければならず、それらの器材は扱いを間違えれば死ぬかもしれません。そう考えると、現在、その先があるのなら行ってみようというダイバーは、黎明期より高度化、複雑化した条件で、同じようにハイリスクなダイビングにチャレンジしているのかもしれません。レジャーの人と二層化すると
いうのでしょうか。

ー来年、80歳で水深80mに潜ることを計画されていますが、これまで誰もやったことがないチャレンジですね。
須賀:
僕は生涯をかけてのめり込んだものが、潜水で良かったと思っています。もし、それがパイロットだったら、どんなに元気で自分がやりたいと言っても、加齢が原因で飛行機を落とすようなことになれば、周囲も巻き込んでしまいますから、ある年齢になったらやめさせられるでしょう。
潜水の場合は、多少は周囲に迷惑をかけるかもしれませんが、もしもの時は自分が死ぬだけですから。自分ができると思えば80歳で80mに潜りたいと言うことが許されると思っています。僕は60歳の時に80歳という締め切りを作り、その締め切りに80mに潜ろうと目標を立てました。80歳で目標を達成したら次の目標に向かって突き進んでいく。これまでそうやって生きてきました。僕のような後期高齢者は、何か目標がなければ生きていけないと思います。それが、マラソンでも山登りでも書道でもなんでもいいんですが、自分が生涯をかけてこれをやるんだというターゲットがないと、不幸な高齢者として命を長らえるしかありません。
生きる目標を作って、チャレンジしていく。それとそのチャレンジが、昨日誰かがやったのと同じものではいけない、クリエイティブでなければいけないと思っています。僕がやろうとしているのは、まず、80歳の僕でも80mに潜れるような器材を作って潜ることです。人間、80歳になれば、頭は若い子の100分の1、一生懸命泳ぎのトレーニングをしていますが、筋肉は衰え、いくら頑張ってもスピードは上がりません。そんな僕でも潜れるスタイルを考える。そういうシステムを作るのがクリエイティブだと思っています。

僕から潜水を取ったら生きていけない!

ー50年以上、ダイビングを続けられたのはどうしてでしょう。どんな秘訣があるのでしょうか。
須賀:
他に何もできないから(笑)。振り返ってみると、ものを書くのも、写真を撮るのも、会社を経営するのも、すべて潜水が中心になっていました。スガ・マリン・メカニックを経営していた時は「須賀さんが潜水をやめて社長業に専念すれば、会社はもっと大きくなりもうかるようになる」と忠告する人がいましたが、僕から潜水を取ったら生きていけません。僕はそれがプロフェッショナルだと思っています。潜り続けられるように、努力もしています。
気づけば24時間すべてダイビングを中心に考えていますし、お酒も飲まないし、たばこも吸いません。潜水に悪いことはやらないで、定期的にスキンダイビングでトレーニングしています。だけど静養というのはしたことがありません。熱が出てもダイビングには出かけます。周囲からは「須賀さん、どうぞお休みください。身体を労わってください」と言われますが、僕が休むのは死ぬ時なんです。倒れるまでやって、倒れても起きる。起きられなくなった時が終わりです。できなくなった時はもう死ぬしかありませんから。ただ、死の中にもいろんなカテゴリーがあって、ほんとうに命を失うのか、気持ちが死ぬのか。気持ちが死んで、生物学的な死が訪れるのを待つようなことは絶対にやりたくないんです。(終わり)

著者紹介


須賀次郎(すが じろう)
1935年(昭和10年)東京生まれ。
東京水産大学増殖学科卒業。
潜水機材の製造販売会社に勤務した後、水産資源のリサーチ会社を設立。
以後、海洋調査、ダイビング器材やカメラハウジングの設計、水中撮影
などをマルチに手がける。昭和38年、日本で初めてフーカー方式による
100m潜水に挑戦し、平成8年には60歳を記念してのテクニカルダイビング
で100m潜水を行った。
現在は、安全で自立したダイバーの育成を目指す日本水中科学協会(JAUS)
代表理事を務める

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