コラム

2016年4月14日  
北極読本

コラム5 北極の中谷宇吉郎

コラム5 北極の中谷宇吉郎
『北極読本ー歴史から自然科学、国際関係までー』までに掲載しているコラムを紹介。「コラム5 北極の中谷宇吉郎」

 

「雪は天から送られた手紙である」の名言で知られる北海道大学教授 中谷宇吉郎(1900〜1962年)は、晩年近くに、グリーンランドなど北極周辺地域へ赴いて、雪氷の研究を行っている。

 初めてグリーンランドに行ったのは、日本が最初の南極観測隊を送った国際地球観測年の1957年で、宇吉郎は米国の調査隊に加わり、その後も60年まで四夏続けて参加している。

 北極域での活動を、宇吉郎は「白い月の世界」「極北の氷の島の町」などの随筆に詳しく紹介している。

 グリーンランド行きの話が出る以前、宇吉郎は1952年から2年間、米国シカゴの雪氷永久凍土研究所(SIPRE)の主任研究員になり、氷の研究を行っていた。アラスカのメンデンホール氷河から採取された単結晶の氷を使ったチンダル像や力学的変形などの実験である。SIPREは国際地球観測年を迎えるにあたって、グリーンランドに観測基地サイト2を設けて氷床のボーリング(掘削)を実施し、1956年には305mの深さに達していた。宇吉郎のグリーンランド行きはそのSIPREから誘われてのことだった。

 グリーンランドは日本の6倍半の面積で、大部分が厚い氷床で覆われている。サイト2は北緯78度にあるが、そこへはまず飛行機でチューレの米軍基地へ飛び、その先は雪上車が曳く列車で行く氷床上の旅で、五昼夜かかった。

 宇吉郎は雪氷の深さによる物性の変化を調べるため、粘弾性の測定装置を持ち込んだ。ボーリングによって円柱状の雪氷(コア)が取り出されるが、深い所ほど古い時代のもので、氷に含まれる空気は高圧の下で圧縮され、微小な気泡になって閉じ込められる。当時、氷の年代を正確に決める方法はまだ確立されてなかったが、宇吉郎による粘弾性の測定はそうした課題につながる研究であった。

 当時、人為的なものかどうかは不明ながら、世界の気候学者らの間で早くも地球の温暖化の懸念が指摘されていた。宇吉郎は氷床コアから気候の変化を読みとる可能性と意義を強調し、「この氷の中には頼朝が吸っていた空気も閉じ込められている。この空気の中の炭酸ガスの分析も誰かに頼みたい」と語っている(「白い月の世界」)。

 宇吉郎が初めて出かけた時、サイト2では雪上に張ったかまぼこ型テントで町が作られていた。雪を10m以上も飛ばすピーター除雪機で広い壕を掘り、その上に屋根をかけ、雪下の町が作られた。除雪機で吹き飛ばした雪はほどなく堅くしまったが、宇吉郎はこの「ピーター雪」の物性も研究した。雪が固まりにくい極地で飛行機の滑走路を作ることにつながる研究である。

 同じ頃、宇吉郎の門下生たちも北極周辺の各地で研究活動を展開していた。北極海を漂う氷島T-3(Tはレーダー・ターゲットの意)を、宇吉郎は「天与の観測船」として弟子たちを送り込み、海洋や気象の観測を行った。また、アラスカのメンデンホール氷河では、大きな単結晶の氷の研究が行われていた。宇吉郎はグリーンランドへの行き帰りにこれらの調査地を訪れ、弟子たちを激励している。

 最後にグリーンランドに行く時、宇吉郎は体の異常を意識していた。そして、その2年後、骨髄炎により東京で死去した。郷里の石川県加賀市にある宇吉郎の墓の墓碑銘に、友人の茅誠司(元東大総長)は幾多の業績を称えて「グリーンランドと命のやりとりをしたように私には思われて残念でならない。」と結んでいる。



「中谷宇吉郎 雪の科学館」

 宇吉郎が生まれ育った石川県加賀市片山津温泉の近くに1994年開館した。宇吉郎の生涯や、恩師・寺田寅邦との交流、雪や氷の研究などを、映像や実験も交えて紹介している。宇吉郎がSIPREで行った氷のチンダル像を始め、ダイヤモンドダスト、人工雪などの実験も体験できる。グリーンランドでの研究も紹介され、中庭には彼の地から運ばれた60トンもの氷床体積の石を見ることができる。

(神田健三)



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